〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち ⑤加賀藩・前田家 〜

加賀藩・前田家

 前田綱紀公は寛文元年(一六六一年)に加賀藩の第五代藩主になっております。加賀藩江戸藩邸は現在「赤門」として名残を留めておりますが、その藩邸の隣に常在寺がありました。その縁で綱紀公は常在寺に参詣し、日精上人のお説法を聴聞したのです。日蓮大聖人様の教えに触れ、富士大石寺の信仰の素晴らしさを理解し、家中の人々に常在寺に参詣し日精上人のお説法を聴聞するように勧めました。

 側近をはじめとする家臣は、日精上人のお説きになる御法門こそ真実の御法門であり、正しく日蓮大聖人様の教えを伝えている、と深く感じ、次々と入信をしました。そして、江戸での勤めが終わった後、金沢に帰った法華講衆は喜び勇んで折伏に励み、延宝八年(一八六〇年)には金沢法華講を結成するまでになりました。総本山へもたびたび登山をして、御本尊様の御下附も受けておりました。現在伝えられている一番古い御本尊様は、寛文十一年(一六七一年)の脇書があります。

前田綱紀公の信仰 (加賀法華講 竹内八右衛門の書状より)

 仏法の御内得に取りては、松雲院殿(綱紀)第一と存じ候。その故は、松雲院殿の御事、御内証には仏法の邪正を弁ひ、外用には人々を勧めて邪正を捨てしめ正法を信受せしむるの故也。

 然らば過ぎ去りし候松雲院殿殿御近衆の御物語を承り置き候に、松雲院殿には平生御学問を好み遊ばされ候故にや。 世流布の日蓮聖人の書籍までをも拝見遊ばされ候のみにあらず、日蓮聖人より日興上人等と嫡々相承し、秘書本因妙抄・一百六箇・血脈抄等をも御覧遊ばされ候。常恒に本門の題目を口唱し、御近衆中え仰せ付けられ候様は、仏法の中には法華経第一也。法華経の中には本門寿量品第一也。譬へば国には大王、天には日月第一也。人身には寿命第一なるが如し。八宗九宗の中には日蓮宗第一なり。日蓮宗の中には富士大石寺の弘通秘法第一なり。その故は日蓮聖人付法の弟子と申すは唯だ日興(上人)一人なり。所弘の秘法は法華経本門寿量品の文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。この秘法を能々信行する時は国土も能く治まり栄ゆるなり。家民も能く身を持ち家を伝え安穏なり快楽なり。其旨日蓮聖人の御書並大石寺日興上人相伝の秘法本因妙抄等に分明なり。汝等も此の秘抄を拝見し本門寿量品の正法を受持して国家安全現当二世安楽を願へしとて、三大秘法抄・本因妙抄・百六箇血脈抄等を下し置かれ給ふ。

 之に依り、加賀・能登・越中三箇国の内に早速流布の御家中には多く内得信仰の人々ありき。其上在府の砌には大石寺の末、下谷竹町常在寺、本所中郷妙縁寺、小梅常泉寺え参詣せり。就中小梅常泉寺と申すは近代、文昭院殿(徳川第六代家宣)御取立の寺にして御先祖の御位牌御姫君の御正墓御仏殿等皆建立なり。其上新知三十五石所領を下され候。彼の寺にて富士大石寺御貫主の御説法を聴聞し奉り候に松雲院殿仰せの如く、少しも相違無き御法門なり。

 然る間、人々皆一同に申し合わせいよいよ信仰の志を堅固に成し松雲院殿の御為には身命とも惜しむべからずと御奉公ありし故にや、御国も静謐に治まり、国主も安穏にして麓に毒殺害等の災難もこれなく、誠に以ていみじき御治世と伝え奉り候

大聖寺藩第十代藩主・前田利極(としなか)正室、勇姫(ゆうひめ)の信仰

 天保十四年(一八四三年)七月十日、総本山第四十八世日量上人から御本尊を御下附される。大聖寺藩は前田家本藩から別れた藩で、現在の地名では、石川県加賀市にあたる。石高は七万石であったが、勇姫の入信後不思議なことに十万石に加増されている。勇姫のお墓は遺言により常泉寺にあり、総本山にも墓地があり、その後、代々の藩主は日蓮正宗の信徒となった。

○入信のきっかけは、
①嫁いだ三年後に夫の利極が二十七歳の若さで病死したこと。
②その翌年に一人娘を二歳で亡くしたこと。
③勇姫が病気がちであったことがあげられる。

○教化親は
 折伏をした人は、勇姫の病床で世話をしていた桑島という老女。この当時、金沢法難の最中でした。藩では富士大石寺の信仰は禁制の信仰でした。発覚すれば良くて所払い悪ければ死罪、という中で、桑島をはじめ法華講衆は力を合わせて折伏したのです。そして、主人を思う家臣たちの強い心に導かれ、勇姫は入信をいたしました。宿業だと諦めていた病が平癒したことに、御本尊様の功徳を実感した勇姫は、側近の女中衆たちをはじめ多くの人々を導き、さらに妙喜寺の建立に大きな力を発揮しました。