御会式・布教講演④

 本日は、千葉布教区内近隣の御僧侶方の御臨席を賜り、皆様と共に本年度宗祖日蓮大聖人御会式を盛大かつ厳粛に奉修することができ、ここに仏祖三宝尊の御加護はもとより、皆様方のご精進とご尽力の賜物と深く感謝申し上げる次第でございます。誠に有り難うございました。
 私こと去る八月二十二日、浄徳寺第三代住職入院式を奉修させて頂き、これよりは来るべき平成二十一年、立正安国論正義顕揚七百五十年の大佳節に向かい、皆様方と共に精進させて頂くことになりました。
 素より浅学非才にてその器ではございませんが、御法主日顕上人猊下より御慈命賜りました已上、身命を賭して真剣に御奉公させて頂く所存でございます。しかしながらこの浄徳寺を護持興隆発展させるには皆様方一人一人のお力が必要であります。是非ともご協力の程、宜しくお願い申し上げます。
 本題に入る前に、御会式についての御説明を少々申し上げたいと思います。
 御会式とは、宗祖日蓮大聖人様が弘安五年(一二八二年)十月十三日にご入滅され、滅不滅・三世常住のお姿を示されたことをお祝いする儀式で、総本山においては、春の御霊宝虫払大法会とともに宗門二大法要の一つであります。
 会式という語はもともと宮中で行なわれた諸法要のことで、この名称をとって各宗内の法要にあてたものといわれております。その中でも十月十三日はことに重要な法要なので総本山では古来より御大会と称しています。 この御会式は、総本山をはじめ日本全国乃至近年目覚ましい発展を遂げている、アメリカ・中南米・ヨーロッパ・東南アジア・アフリカの海外の各寺院でも執り行われ、ともにこの日は桜の花を作って仏前を荘厳し、立正安国論並びに御申状を奉読します。
 総本山での御大会は現在十一月二十日御逮夜、二十一日御正当の二日にわたって行なわれます。このわけは、太陰暦の十月十三日は、現在の太陽暦で十一月二十一日に当たるからであります。
 さて、弘安五年九月、大聖人様は弟子の中から日興上人を選ばれて、本門戒壇の大御本尊を付嘱されるとともに、御自身亡き後の門下を統率し、正法正義を後世に伝えていくよう後を託され、『日蓮一期弘法付嘱書』を授与され、仏法の一切を日興上人に血脈相承されました。
 大聖人様が日興上人に相承された理由は、日興上人が数多くの弟子の中でも、大聖人様に対する絶対の帰依と師弟相対の振る舞いをもって常随給仕されたこと、さらには学解の深さや人格の高潔さなど、あらゆる点で群を抜いておられたからにほかなりません。そしてまた、教えを誤りなく後世に伝えるために、仏法の方規に基づき、ただ一人の弟子を選んで相承されたのであります。
 晩年、健康を損なわれていた大聖人様は、弟子たちの熱心な勧めによって、常陸の湯(福島県)へ湯治に向かわれることになり、九月八日、日興上人をはじめとする門弟たちに護られて身延の沢を出発されました。その途次、同月十八日に武州池上(東京都大田区)の地頭・右衛門大夫宗仲の館に到着されました。 大聖人様はこの池上邸において、弟子檀越に対して同月二十五日より、『立正安国論』の講義をされました。この御講義は門下一同に対し、身軽法重・死身弘法の精神をもって、広宣流布の実現に向かって精進せよとの意を込めて行われたものでした。このことによって古来より、「大聖人様の御生涯は立正安国論にはじまって立正安国論に終わる」といい伝えられています。
 十月十三日の早朝、大聖人様は御入滅を間近に感じられて、日興上人に対し『身延山付嘱書』を授与され、身延山久遠寺の別当(貫首)を付嘱されました。この『身延山付嘱書』では、唯授一人の血脈相承を受けられた日興上人に随わない門弟・檀越は、大聖人様の仏法に背く非法の衆・謗法の輩であると厳しく諌められています。
 このように日興上人は、前の『日蓮一期弘法付嘱書』において法体の付嘱を受けられ、また『身延山付嘱書』においては一門の統率者としての付嘱を受けられました。これら二箇の相承は、ともに日興上人を唯授一人・血脈付法、本門弘通の大導師として明確に示しおかれたものです。
 そして、すべての化導と相承を終えられた大聖人様は、池上宗仲邸において大勢の弟子や信徒が読経・唱題申し上げる中、安祥として御入滅あそばされました。
 日興上人お認めの『宗祖御遷化記録』等によると、御入滅は辰の時とあるので今の午前八時頃になりますが、この時は大地が震動し、十月だというのに庭の桜に時ならぬ花が咲いたと記されています。正に末法の御本仏様の御入滅を、宇宙法界の生命を挙げてこれを惜しむと同時に、滅不滅(滅にして滅にあらず)の仏法をお祝い申し上げた様を彷彿として偲ぶことができます。
 それによって、毎年の御会式には桜の花で御宝前を荘厳し、御祝い申し上げる訳であります。
 一般に日蓮宗他派における御会式といえば、大聖人様のご命日の法要のことと考えていますが、大聖人様を末法の御本仏様と仰ぐ我々日蓮正宗においては、その御入滅は非滅の滅であり、要するに大聖人様の永遠不滅の御本仏様としてのご境界を拝するお喜びの儀式なのです。それと同時に、御宝前において『立正安国論』並びに御歴代上人の国家諌暁の申状を奉読して、我々法華講衆が法華折伏破権門理の信心を御仏前に表し、日蓮大聖人様の御精神を永遠に厳守して、忍難弘通・広宣流布大願成就達成への精進をお誓い申し上げる、我々正宗の僧俗にとって年に一度の非常に大切且つ重要な法要であります。
 以上簡単ですが、御会式について一言申し述べさせて頂きました。
 さて、私達日蓮正宗の僧俗が崇高な理念のもと、広宣流布というはるかな目的に向かって一致団結して精進している今日、世情を察しますと、私達の周りの世界は、自然災害・無差別テロとその他、大小様々な奇怪な事件が絶えず報道され、目を疑うほど、驚くようなことが連日のように続いています。 
 この私達の国土世間はいったい、どうなってしまったのでしょうか。
 日本においては、ここ数年、毎年大型台風の被害に見舞われ、多数の死傷者、倒壊家屋、農作物の不作、河川の氾濫など多大な被害を受けています。特に先の宮崎県を恐った台風は、近年稀にみる被害によって、宮崎県内に大きな爪痕を残しました。
 そして、先般の新潟県中越地震等の大地震であります。被災した新潟地方では多数の死者を出し、家屋が倒壊し、水没し、田畑や家畜産業にも大きな被害を出しました。
 ここ数年の、これらの一連の災害を見るにつけ、私達が「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」に向けて、一致団結して精進しているこの時、まさにその『立正安国論』の御文そのままの様相が今の日本に現出されている、との思いを強く抱くものであります。
 大聖人様は『立正安国論』の冒頭に、
「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し。(中略)是何なる禍に依り、是何なる誤りに由るや」と説かれています。
 この『立正安国論』に、七百年前、大聖人様が説かれた天変・地夭・飢饉・疫癘との災害は、すべて今日、この数年の間に日本国民が被った災害と同じであると思うのであります。 
 「天変」とは、台風による大雨と洪水、「地夭」とは、たび重なる大地震、「飢饉」とは、台風と地震による作物の不作、そして「疫癘」とは、数年前に発生したO一五七、狂牛病や鳥インフルエンザ、サーズ(SARS・重症急性呼吸器症候群)などの伝染病が該当いたします。
 また新潟地震のニュースでは、置き去りにされた牛や養殖の鯉など多くの家畜の死も報道されておりましたが、まさにこれは「牛馬巷に斃れ」との御文をそのまま彷彿とさせるものであります。
 まさか七百年前の大聖人様の御金言が、科学や医学の発達した今日、時代を超えて、寸分違わず当てはまるような事態が実際に起ころうとは、皆様も想像されていなかったことと思います。
 それでは、なぜこのような災難が続くのか、私達正法を受持する者は、それを仏法の上からしっかりと理解しておくことが大事だと思うのであります。
 大聖人様は、それらの災害の理由を『立正安国論』に、「(主人の曰く)倩微管を傾け聊経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」と説かれています。 つまり、世間の人達が皆正法に背き、悪法に執着しているが故に、善神がこの国から去り、聖人と呼ばれるような人達が皆社会の表から引いてしまって、この国を正法の正義に導くことをあきらめてしまっている、故にこのような国では当然、魔が競い、災難が起こることになるとの意味であります。
 我が宗門では、今日のこの災いは、かの池田創価学会が宗門への敵対を開始した、まさにその時に起こった雲仙普賢岳の噴火に始まり、『ニセ本尊』を大量に配布した時に勃発した阪神・淡路大震災などの例を挙げて、すべて池田創価学会の謗法が根本の原因であるとの御法主日顕上人猊下の御指南が、既に何度かありました。
 その御指南によって拝すれば、今年の台風や地震もすべて同じ原因によると理解できるのでありますが、しかし、そのように仏法上の因果を理解した上で、なおこの数年は、厳しい自然災害が激しく日本を襲い続けているとの思いを強くするのであります。 
 そこで改めてこの自然災害の原因を仏法の上から検証してみたいと思います。
 仏法には「依正不二」という言葉があります。これは中国の妙楽大師という方が、天台大師の『法華玄義』を注釈した『釈籖』という書のなかに、十不二門という法門を説かれ、そのなかの第六番目に「依正不二門」として説かれているものであります。
 すなわち、一念三千を構成する三千世間のうち、五陰世間と衆生世間の二千を正報と言い、国土世間の一千を依報として、この依正の三千世間が一心・一念に収まるということであり、故に依正は各々が不二一体であるということであります。
 これについて大聖人様は『総勘文抄』に、「仏の外に十界無く依正不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ」と示され、十界の依正はすべて仏の身体であり、寂光土であると説かれています。
 さらに『諸法実相抄』に、「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり(中略)妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ」と仰せのように、十界の依正の当体は、ことごとく妙法蓮華経の姿であることを明かされています。
 つまり私達の住んでいるこの娑婆世界も、そこに住んでいる私達も、すべて妙法蓮華経の姿であるということであり、言い換えれば、正報たる私達衆生も、依報たる国土世間も、すべて妙法のなかに存するのであり、その故に正報も依報も不二一体であるということであります。
 さて、ここまでは「依正不二」の原理、すなわち正報たる私達の生命と、依報たるその環境・国土世間は一体不二であることをお話しいたしましたが、それではこの十界の依正の当体は妙法の内に存すると説かれるこの私達の国土世間に、何故、地震や台風が頻発し、そこに住む人々を苦しめるのでしょうか。
 それにつきまして大聖人様は『瑞相御書』に、「夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此をつくる」と仰せられ、さらに同抄に、「人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す」と仰せられて、依報たる国土世間は、そこに住む正報たる衆生の善悪によって、どのようにでも変化することを明かされています。
 また『如説修行抄』には、「正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば、国土に悪鬼乱れ入りて三災七難盛んに起これり」と仰せられて、天変地夭、三災七難は、「人の悪心盛んなる時」、また人々が「正法に背き邪法邪師を崇める時」に起こると説かれているのであります。そして大聖人様は『顕仏未来記』に、
「当に知るべし、通途の世間の吉凶の大瑞に非ざるべし。惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」と説かれています。
 要するに『立正安国論』に説かれる大聖人様御在世当時の災害は、大法が興るか廃れるかの重要な大瑞であるとの御文でありますが、この御文に照らして、今日の災害の瑞相が御書のとおりであるならば、大聖人様の大法は、やがて世間に広く流布していくことも間違いないのではないでしょうか。ですからこそ、我々日蓮正宗の僧俗は、いついかなる災害に見舞われるかわからない今日こそ、諸天の御加護を信じて、更なる信心修行に励むことが非常に大切でります。
 次に今迄申し上げました天変地夭と共に最近世間を不安にさせているのが、国際テロ組織等による無差別テロであります。数日前には、バリ島における自爆テロ、また四年前には国際テロ組織アルカイダによる、アメリカ合衆国において、無惨極まりない大規模テロ行為により非常に多くの犠牲者を出しております。
私も、そのテロの後間もなくして、丁度炭疽菌事件が起きている頃アメリカに渡り、昨年春までシカゴの妙行寺にて御奉公させて頂いておりましたが、特にニューヨークではそのテロが原因で、多くの人が精神を患い、苦しんでいる状況があり、先日もニューヨークの地下鉄へのテロ予告があり、物々しい警備体制が敷かれていますが、更に毎日絶えずテロの報道や、テロ警報が発令されたり、イラク戦争を期に新たなる報復テロへの恐怖と、毎日気の休まる時がないほど、テロに対する恐怖意識がアメリカ国民の心を蝕んでおり、実際自分もラジオやテレビを見ながら、不安な毎日を過ごしていたような気がします。
 しかしながら、不思議というか必然とも言えますが、四年前の同時多発テロ、アメリカではその日付をとって、セプテンバーイレブンと呼んでいますが、その頃ニューヨークの妙説寺に在勤しておられた御僧侶が、テロの当日お休みを頂いて、お寺のご子息、法華講のメンバーの方と、今はなきマンハッタンのワールドトレードセンターに登る予定でしたが、当日の朝になって御僧侶が急に体調を崩され、結局予定を延期したことによって、テロの被災を免れたという話もございます。
 やはりこの正法を受持する我々正宗の僧俗は、そういった時にこそ改めて、諸天の御加護を痛感するものであります。
 さて、このような悲惨な光景を目の当たりにし、宗教本来の姿は何たるかを問いかけたくなる所存でありますが、かつての第二次世界大戦も日本軍の精神的指導者であった石原莞爾や北一輝ら原理主義を信奉する者達が、大聖人様の仏法を曲解・歪曲し日蓮主義なるものを提唱し、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争を引き起こし、世界大戦へと繋がったのであります。
 大聖人様は『諸経と法華経と難易の事』に、
仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし。世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり
と御教示の如く、これらは偏に仏法に悉く違背する邪義邪宗の蔓延する今日の世界各国の宗教事情に比例するものであり、仏法上では起こるべくして起きたものであるとも言えます。しかしながら、大変多くの尊い命が犠牲になったことは紛れもない事実であり、一刻も早く広宣流布実現の願業に邁進すべき任を深く感ずるものであります。
 大聖人様は『曽谷殿御返事』に、
謗法をせめずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し
と仰せであります。要するに日蓮正宗の僧俗は、自ら謗法を犯さないことは当然のこと、更に進んで謗法を対治することが肝要であり、これこそが自行化他に亘る信心の実践であります。
 しかしながら私達末法の凡夫は過去世から併せ持つ宿業乃至罪障、そして煩悩による用きにより、仏道修行の妨げとなることが多々あり大聖人様は正法を信行するものの身・口・意三業による謗法として『松野殿御返事』には十四誹謗についてが御教示されています。
 又『念仏無間地獄抄』には、
諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云。然れば譬喩品十四誹も不信を以て体と為せり
とありますように、種々の悪業煩悩を始め、十四誹謗の一々も全ては仏法を信じないこと御本尊様に対する不信がもととなって犯してしまう謗法であります。例えば朝晩の勤行をしなかったり、唱題行を怠ったりと、日常生活の忙しさにかまけて、ついつい犯してしまいがちかもしれませんが、これらは全て御本尊様に対する信心の薄さが原因であり、それらは一様に堕地獄の因となって自らの命に刻まれてしまうと大聖人様は、御書の各処に仰せになられています。ですからこそ常にお題目を真剣に唱え、このような十四誹謗に陥ることなきよう、信を深めていかなければなりません。
 御法主日顕上人猊下は、
生活上の種々の目的のため、折伏のため、現世安穏のため、後生善処のため、あるは種々の希望や欲求満足のために、御本尊に向かい唱題することもまた、至極、結構なことであります。しかし、知ると知らざるとにかかわらず、どんな小さな利益も罰も、その元はすべて一心法界に遍満し、通ずる妙法の利益と罰であり力用であります。そのところをしっかり掴まえておけば、いかなることが起こっても動かず、恐れず、揺るぎない確信が生ずると信ずるものであります。
と御指南されております。皆様方がどのような経緯で入信されたかは千差万別でありますが、少なくとも大聖人様の仏法を信行していく上での基本姿勢は同じであります。その中で大切なことは、三世の生命に立脚した正しい人生観・道徳観の認識と、自己に降りかかる善悪様々な現実が全て自分自身に原因があることを把握・理解することであります。
 その上で、毎日の弛まざる信行の実践により、『御義口伝』の、
南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり
との御教示の如くに、信心の確信とそれを行ずることができる喜びを一人でも多くの人と分かち合うことが大切であります。
 僧侶であっても、御信徒の立場であっても、信心は年数ではありませんし、たとえ入信間もない人であっても十四誹謗を犯すことなく今この時、心の底から真剣に御本尊様を信じ、お題目を唱えることができる人こそが仏道修行者として最も尊いのであります。
 そしてまた、生まれながらに併せ持つ宿業や罪障は、簡単に消え失せるものではありませんし、それによる自身の性格や考え方、迷いの根本たる煩悩による誤った行動や、欲望等、いくらでも不幸の原因とされるものは存在します。
 日顕上人猊下の御指南に、
正しく御本尊を信ずる者は、我が一心即法界なる故に、自由自在の境界をおのずと開かれ、心が広く豊かで、自然に喜びの心があふれてきます。(中略)対人関係においてもおのずから人々の姿をゆとりを持って正しく見るようになる。また不平・不満や暗い苦悩の生活が、いつとなしに喜びと希望に変わっていく。そこからまた、折伏の心、人を本当に思いやる心が出てまいります。しかし、その元はすべて妙法受持の信心でなければ本物ではありません。かくて、すべての人に妙法の功徳を語りつつ、共に幸せになっていく仏法の上の修行こそ、広宣流布の要諦であると思います
とあります。
 この御指南にある姿こそが、私達正宗の僧俗が信行の実践により培っていくべきものであり、末法の御本仏様が宇宙法界に遍満する妙法を悟られた真理に相通ずるものであります。
 そして又日顕上人猊下は、
すべての存在が常に幸福で安楽でいられることを願いつつ、より強く、より正しい命の実現に向かって進んでいくところに、人間として生まれた本当の意義が存すると思うのであります。(中略)「自分はどのような意味からこの世に生まれ、どのような意義において自分の使命があるのか」ということを自覚すること、そしてその自覚の上から、さらにその使命をしっかりと遂行していくことが大切であります。
と仰せであり更に、
私自身も、大聖人様が戒められた、?慢、懈怠、計我、浅識、著欲、不解、不信、顰蹙、疑惑、誹謗、軽善、憎善、嫉善、恨善という十四誹謗について、常にお題目を唱えつつ、このことに陥らないように、そして皆様と共に本当に正しく大聖人様の仏法を修行させていただくことを祈っておるものであります。この心をもって真の妙法を持っていくことこそが最高の使命であり、また皆様方一人ひとりが大聖人様の南無妙法蓮華経を受けられたことがそのまま、本当に尊い使命の全部であるということをしっかりとお考えいただきたいと思います。そこに、あらゆる日常生活の使命の遂行も、真の幸せの顕現も存すると思うのであります
と御指南されております。
悪は多けれども一善にかつ事なし
との大聖人様の御教示がありますが、今日の恐るべき天変地夭、全世界に戦乱の渦を引き起こしかねない恒久平和の危機的状況、明日我が身に何が起こるかわからない、狂乱し腐敗する世間の状況を鑑みた時、様々な邪宗邪義の跋扈が根本原因であり、今この混沌とした社会に、ただ一つの光明を灯し、仏国土を建設するための尊い使命を担っているのであります。それが、御法主上人猊下が仰せられた地涌の眷属としての使命であります。
 兎にも角にも、冥の照覧と諸天の御加護を確信し、四年後に迫った平成二十一年、立正安国論正義顕揚七五〇年、それに先立つ三年後の平成二十年、浄徳寺創立三十周年の佳節に向けて、国土の災難を払い、平和な仏国土を建設するために、共々に一層の精進をしてまいりましょう。
 以上、拙いお話ではありましたが、その意とするところをお汲みいただけることを念願し、皆様の御健勝と御活躍、法華講浄徳寺支部の益々の御繁栄を心よりお祈り申し上げ、本日の話を終わらせていただきます。
 ご静聴誠に有り難うございました。