観妙院日慈上人御説法

 日応上人御報恩御講 観妙院法話 昭和六十年六月九日
  

 『種々御振舞御書(しゅじゅおんふるまいごしょ)』(新編一〇五七頁)
 「仏滅後(ぶつめつご)二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台(てんだい)等、妙楽・伝教(でんぎょう)等だにもいまだひろめ給はぬ法華経(ほけきょう)の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法(まっぽう)の始めに一閻浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮(にちれん)さきがけしたり。わたうども二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台(てんだい)・伝教(でんぎょう)にもこへよかし。わづかの小島のぬしらがをどさんを、をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき。仏の御使ひとなのりながら、をくせんは無下の人々なりと申しふくめぬ。さりし程に念仏(ねんぶつ)者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶はざれば、上郎尼ごぜんたちにとりつきて、種々にかまへ申す。故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄(むげんじごく)に堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮(にちれん)が罪禍まぬがれがたし。但し上件の事一定申すかと、召し出だしてたづねらるべしとて召し出だされぬ。奉行人の云はく、上へのをほせかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄(じごく)といふ事はそらごとなり。此の法門(ほうもん)は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり。」

 

 本日は法道院(ほうどういん)開基日応上人(にちおうしょうにん)の御報恩の御講(おこう)をつとめましたところ、天候の不順にもかかわらず、ご参詣戴きましてまことにありがたく存ずる次第でございます。
 つきましては、只今の拝読した御書(ごしょ)の一部をお話申しあげて、あと日応上人(にちおうしょうにん)のことについて少々お話をいたしたいと考えております。
 まずそのまえにご案内をいたしますが、六月十五日には日応上人(にちおうしょうにん)の満山(まんざん)供養(くよう)本山で行うように猊下(げいか)にお願いしております。ちょうど日恭上人といつも毎年おこなっておりますのでこれにたいするご参詣(さんけい)の方が五〇〇人を越したということを聞いて非常(ひじょう)によろこんでおる次第(しだい)でございます。
 ひとつくれぐれもよろしくお願いをいたします。なお、当日は阿部登山部長指揮(とざんぶちょうしき)のもとに登山会をいたしますが、また車の中でも、また向こうへいきましてからでも、いろいろ行事(ぎょうじ)を編成していると思いますし、満山(まんざん)供養(くよう)が終わったあと、御開扉を願うようになておりますので、この点は大変結構(けっこう)だとおもっております。
 それからあと七月の御講(おこう)が七日の予定を考えましたが、丁度選挙(ちょうどせんきょ)にもなりますし、いたしますのでこれが二十一日に日取りを変更して七月は行いたいと考えております。どうぞこの点はよろしくご了承(りょうしょう)を願いたい。
 なお、毎月の一日の永代(えいたい)供養(くよう)、午後一時からでございます。それから七月はお盆の月でありますので、十四日の御前十一時から新盆、初盆の方の供養(くよう)をいたします。それから午後一時から法華講(ほっけこう)の盂蘭盆会の法要(ほうよう)を執り行う。こんなことになっております。
 以上もうしあげておきます。
 さてただいま拝読いたしました御書(ごしょ)でございますが、『種々御振舞御書(しゅじゅおんふるまいごしょ)』とたいへんこれは大切な御書(ごしょ)でございます。
 大体(だいたい)申しあげますと、おのおの我が弟子等(でしとう)となのらん人々は一人もおくしおもわるべからず、この一行にお心はつきておると思うのでございます。
 要するにおのおの日蓮(にちれん)が弟子と名乗る人々、私共日蓮(にちれん)が弟子旦那(でしだんな)でございますが一人でも臆する心、臆病であってはならない、こうゆうお言葉(ことば)でございます。
 これは私共信心(しんじん)する者にとって一番大事(だいじ)なことは、
 「師は針の如く弟子は糸の如し」
 私達は大聖人様(だいしょうにんさま)の信心(しんじん)を信心(しんじん)するのでございます。大聖人様(だいしょうにんさま)は、
 「日蓮(にちれん)が弟子旦那(でしだんな)臆病にては叶うべからず」
と、臆病じゃダメだと。こういうことをおっしゃっております。
 あるいは、
 「師子王の如くなる心をもてるもの、必ず仏になるべし」
というのは大聖人様(だいしょうにんさま)が師子王のおこころをお持ちでいらっしゃる。その信心(しんじん)をするものは、絶待に負けてはならない。師子王の、獅子のお心をもって、信心(しんじん)生活に励んでいかなければならない。こういうことでございます。
 これをうけて、おのおの、あなたがた、大聖人様(だいしょうにんさま)の弟子旦那(でしだんな)等名乗る人は、ひとりも臆する心、臆病であってはならない。そうゆう心をおこしてはなりません。こういうことですね。
 これはもう日常の生活の上にも信心(しんじん)の上にも、折伏(しゃくぶく)の上にも非常(ひじょう)に大事(だいじ)なことでございまして、私達は、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の信者(しんじゃ)であるその確信、自信を持つということが大事(だいじ)でございます。
 人間(にんげん)というものは不思議(ふしぎ)な者で、他からいくらたたかれても破れる者でもありません。滅びる者でもございません。ただ他からたたかれて、これはこまったという臆病の心がおきたときに自分が自分を滅ぼしてしまう。これが人間(にんげん)です。ここを大聖人(だいしょうにん)がおっしゃるんですね。
 どんなことがあっても、日蓮(にちれん)が弟子旦那(でしだんな)と名乗って、堂々と行きなさいと。絶待に負けちゃいけないんだと。仏法(ぶっぽう)は勝負だと、必ず勝たなきゃいけない。臆病ではダメだと。こうおっしゃる。これをつかめば大聖人(だいしょうにん)の仏法(ぶっぽう)は会得できるはずでございます。 
 ですから最後のところに、わずかばかりの小島の主である日本の国の主、これは北条執権をいうんですが、その威嚇、おどさんを怖じてはなんのことはないんだと、それはもうダメだと。こういうふうに大聖人(だいしょうにん)はここでむすんでおられるわけでございます。
 これは私達の日頃の信心(しんじん)、あるいは家庭(かてい)、生活の上に非常(ひじょう)に大事(だいじ)なことであって、ゆめゆめこれを忘れることは出来ないとおもいます。
 そこで私達の信心(しんじん)のいうえからこれを考えてみれば、大聖人(だいしょうにん)は、
 「それ摂受折伏(しゃくぶく)と申す法門(ほうもん)水火の如し」
摂受折伏(しゃくぶく)、二つ法門(ほうもん)がある。
 摂受というのはやわらかにものを弘める。ある程度(ていど)間違いがあっても認めてあげる。折伏(しゃくぶく)はそうじゃない。末法(まっぽう)は折伏(しゃくぶく)の時であって、折伏(しゃくぶく)とは、いわゆる自分の信心(しんじん)において、大聖人(だいしょうにん)の功徳(くどく)を慈悲(じひ)をわけてあげる、相手の誤りを誤りとしてはっきり認識させる。こういうのが折伏(しゃくぶく)になります。
 相手の誤りを認めない。
 「ああそうですか、念仏(ねんぶつ)の結構(けっこう)です、御信心(ごしんじん)結構(けっこう)です。でもまあ、お題目(だいもく)も唱えませんか」
これは摂受であって、折伏(しゃくぶく)ではない。念仏(ねんぶつ)は不幸せな根源である。あくまでも御本尊(ごほんぞん)を信じて御題目(おだいもく)を唱えなきゃならない。これが折伏(しゃくぶく)になる。
 ですから、大聖人(だいしょうにん)は摂受折伏(しゃくぶく)と申す法門(ほうもん)は、水火の如し、無智悪人の国土に充満の時は、摂受をさきとす、無智の人。ところが邪智謗法(ほうぼう)の者の多きときは、折伏(しゃくぶく)をさきとす。
 現在(げんざい)の時代は、無智じゃない、邪智である。悪人じゃない、謗法(ほうぼう)の者、この時は折伏(しゃくぶく)をさきとするというふうにおっしゃっております。
 ですからここにこのいわゆる折伏(しゃくぶく)をさきとするという大聖人(だいしょうにん)の仏法(ぶっぽう)があるわけでございます。ですから今末法(まっぽう)においてはいわゆるこの爾前迹門の謗法(ほうぼう)、これを折伏(しゃくぶく)するという末法(まっぽう)の衆生(しゅじょう)は折伏(しゃくぶく)のの二字につきると日寛上人(にちかんしょうにん)は御指南(ごしなん)になっております。大事(だいじ)なことなんです。
 大聖人(だいしょうにん)は、流布は折伏(しゃくぶく)なんです。いわゆる我々の御題目(おだいもく)は折伏(しゃくぶく)なんです。
きょうも午前中にお一人の法華講(ほっけこう)の方が折伏(しゃくぶく)をうけて、御本尊(ごほんぞん)をうけられた。只今の四人の方が御本尊(ごほんぞん)をおうけになった。まことにめでたいことであって、法華講(ほっけこう)の皆さん一同こぞって、本当におめでとうと申しあげる心と思います。
 これを法道院(ほうどういん)の法華講(ほっけこう)としては、私は大体(だいたい)月四十所帯の折伏(しゃくぶく)がなきゃならないと思っております。御法主上人猊下(げいか)は、
 「一年に一人が一人を折伏(しゃくぶく)しなさい。一所帯が一所帯を折伏(しゃくぶく)しなさい」
このような御指南(ごしなん)をあそばされておりますが、これは非常(ひじょう)に大事(だいじ)なことで、猊下(げいか)は法華講(ほっけこう)については非常(ひじょう)にくわしい。ご自身がご苦労をしていらっしゃる。こういうかたですから、一人が一所帯の折伏(しゃくぶく)が出来るはずだと。だからやんなさいとこういうんです。
 出来ないことを猊下(げいか)はおっしゃってはいない。この点私達、宗門の弟子旦那(でしだんな)として、この猊下(げいか)の一所帯が一所帯を、一人が一人をこれを合い言葉(ことば)として、広宣流布(こうせんるふ)のために、民衆救済のために、不幸せのひとを幸せにするために、仏の使として、折伏(しゃくぶく)を行じていかなければならない。実に私達大聖人(だいしょうにん)の仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)とは、折伏(しゃくぶく)の二字に尽きると、こう腹においていただきたいと思います。
 御題目(おだいもく)を唱える。これは大事(だいじ)なことです。非常(ひじょう)に大事(だいじ)なことです。しかし、折伏(しゃくぶく)のない題目(だいもく)は、大聖人(だいしょうにん)の題目(だいもく)ではありません。これを考えてくれなければ困るんですね。折伏(しゃくぶく)のない題目(だいもく)は大聖人(だいしょうにん)の題目(だいもく)じゃない。
 いくら朝から晩まで三百六十五日、二十六時中題目(だいもく)を唱えていても、折伏(しゃくぶく)が出来なければ何にもならない。これは非常(ひじょう)に大事(だいじ)なことだから気を付けていただきたい。
 よく「御題目(おだいもく)を唱えりゃいい」と簡単(かんたん)にいっているけれども、折伏(しゃくぶく)をしないで、ただ御題目(おだいもく)だけ唱えているというのは、自行の題目(だいもく)であって、折伏(しゃくぶく)があってこそ、自行化他(じぎょうけた)の題目(だいもく)だと。このことを考えないといけないと思います。
 よく御信者(ごしんじゃ)は、私達の御題目(おだいもく)を唱えるということは大事(だいじ)だから、御題目(おだいもく)はいいますけれども、折伏(しゃくぶく)のない御題目(おだいもく)は、大聖人(だいしょうにん)のお題目(だいもく)じゃない。この点をいわゆるかんがえていかなきゃならない。これはもう非常(ひじょう)に大事(だいじ)だと思うんです。
 現在(げんざい)法華講(ほっけこう)においては毎週日曜日御題目(おだいもく)を朝の勤行(ごんぎょう)の後に唱えておられます。大変結構(けっこう)だと思います。しかし考えてみると、それだけでいちゃあなんにもならないんです。これですね。
 ですからたとえばきょうのような御講(おこう)の日は、日曜日ですけれども、いわゆる朝詣りをして御題目(おだいもく)をあげてそしてお昼になっちゃあ御講(おこう)に出る。折伏(しゃくぶく)に行く時間(じかん)がひとつもない。これはどうでしょう。御講(おこう)の日は朝詣りをするならして、それから折伏(しゃくぶく)に出るとか、むしろ行動じゃないでしょうかね。
 今の私は、ちょっと口は悪いかもしれないけれども、御題目(おだいもく)を唱えてりゃいいんだというようなあまい、大聖人(だいしょうにん)の仏法(ぶっぽう)からはずれた題目(だいもく)に法華講(ほっけこう)はかたよっているんじゃないかということを心配(しんぱい)しています。
 ですから、どうしたってまあ、たとえばきょうのような、朝詣りをする、題目(だいもく)はやる、又一時から御講(おこう)がある。参詣しなきゃ成らない。いつ折伏(しゃくぶく)に出るのかと。こういうことも考える。これはひとつ講頭(こうとう)さんがいますけれども、考えてもらいたい。
 まあ例えていえば、御講(おこう)の日、日曜日にぶつかります。四月二十一日にもいろいろそういうふうにぶつかっていきますが、この日はむしろ御講(おこう)に参詣するために、朝のお参りをするにしてもまあそれは自由で、朝の勤行(ごんぎょう)は自由ですけれども、自分の家で、しっかり御題目(おだいもく)を唱えてむしろその時間(じかん)は折伏(しゃくぶく)弘通(ぐづう)に立たなければ広宣流布(こうせんるふ)はできないんじゃないでしょうかね。
 わたしこれはちょっと最近非常(ひじょう)に考えているんです。そりゃあ結構(けっこう)ですよ、それこそ朝から一万遍の題目(だいもく)、百万遍の題目(だいもく)、朝から晩まで飯も食わずに唱えて結構(けっこう)です。けども
それは大聖人(だいしょうにん)の仏法(ぶっぽう)とは違う。こう私は思うんです。やはりきょう四人の方が御本尊(ごほんぞん)おうけになったが、いずれも紹介者が足をすりへらし、本当に真心から信心(しんじん)から本当に幸せになっていただきたい。こういうことで折伏(しゃくぶく)しておられると思うんです。そりゃあ私は御題目(おだいもく)を唱えることは否定はしない。けれどもやはりそこには在家のみとしてはそれだけのひとつの感覚と時間(じかん)のいわゆるさだめといいますか、方針といいますかこれも考えなきゃならないんじゃないんだろうか。これひとつ講頭(こうとう)さんにお願いしておきます。
 さてついてはこんにち大聖人(だいしょうにん)の仏法(ぶっぽう)は、旭日昇天といいますか、実に世界百十五カ国に御本尊(ごほんぞん)流布がおよんでおります。そして世界の人々が本当にアフリカの人でもインドの人でも、或は韓国の人でもみんな、皆さんと同じ御題目(おだいもく)を唱え、お経を読んでそして折伏(しゃくぶく)をしております。
 これはもう折伏(しゃくぶく)するひとは御題目(おだいもく)をしっかり唱えているということなんです。しっかり御題目(おだいもく)を唱えていなければ折伏(しゃくぶく)はできません。そこにいわゆる私達の深い大聖人(だいしょうにん)の功徳(くどく)信心(しんじん)がある。
 ですから大聖人(だいしょうにん)は、
 「和党共二陣三陣つづき迦葉・阿難等にもすぐれ天台(てんだい)・伝教(でんぎょう)にもこえよかし」
とおおせられておる。 
 現在(げんざい)かんがえるなら、広宣流布(こうせんるふ)という大きな使命(しめい)感に立つ。私達はよく折伏(しゃくぶく)を誓願(せいがん)を達成しないという御祈念(ごきねん)の方がございまして、御本尊(ごほんぞん)におとりつぎをよくしておりますが、その使命(しめい)感、そして広宣流布(こうせんるふ)への折伏(しゃくぶく)のいわゆる感激(かんげき)、ここにこの勇猛邁進する人材が続出しなきゃならない。これが和党共、お前たちはというんですね。日蓮(にちれん)一人南無妙法蓮華経と唱えたと。
 和党共二陣三陣、自分に続いて、迦葉・阿難にもすぐれ、天台(てんだい)・伝教(でんぎょう)にもこえなさいと。これ折伏(しゃくぶく)をいうんですね。広宣流布(こうせんるふ)という大行、大きな戦いをおこしなさいと、こうゆうことですね。
 これにはいわゆる民衆を不幸せにする念仏無間(ねんぶつむげん)・禅天魔(ぜんてんま)・真言亡国(しんごんぼうこく)・律国賊(りつこくぞく)その邪宗教(しゅうきょう)を全部破折(はしゃく)していかなければならないということです。これ大事(だいじ)なんですね。これ大事(だいじ)なんです。これを破折(はしゃく)していかなきゃならない。折伏(しゃくぶく)行、歩かなきゃいけないんですね。
 内山のおばあさんがよくいっていましたね。御題目(おだいもく)を唱えて歩くんだと。折伏(しゃくぶく)しようと思って、いいことをしようと、随分内山のおばあさんに世話(せわ)になった人もいますね。
 今、駒形さんが折伏(しゃくぶく)しましたが、この人も内山のばあさんに縁のある人で、もういいことしよう、折伏(しゃくぶく)しよう、功徳(くどく)を積もうと思うと必ず魔が邪魔(じゃま)をするからきをつけなさいと。よくいったもんです。そこに私達の南無妙法蓮華経の命の宝塔を御題目(おだいもく)によって折伏(しゃくぶく)によってかがやかされる、磨く、そしてあらゆる分野で大法弘通(ぐづう)の新しい前進の為に団結し、随力弘通(ぐづう)をしていくこと。随力弘通(ぐづう)、
 「行学(ぎょうがく)の二道を励み候べし行学(ぎょうがく)絶えなば仏法(ぶっぽう)はあるべからずわれもいたし人をも教化(きょうけ)候へ」
それが行学(ぎょうがく)だ。
 「行学(ぎょうがく)は信心(しんじん)よりおこるべく候」
 随力弘通(ぐづう)、昔から今は折伏(しゃくぶく)という言葉(ことば)を使いますが、昔、日応上人(にちおうしょうにん)時代には、弘通(ぐづう)ということをいっております。これがいわゆる死身弘法という大聖人(だいしょうにん)の仏法(ぶっぽう)になるわけですね。
 ですから和党共に陣三陣続き、そしてこのいわゆる迦葉阿難にもすぐれ、天台(てんだい)伝教(でんぎょう)にもこえよかし、こうおっしゃっておる。
 この御書(ごしょ)がこの各々我が弟子とならん人々は、一人もおくしたもうべからずというお言葉(ことば)と関連してつながってむすんでいるんです。実に日蓮(にちれん)が弟子旦那(でしだんな)である我々は、釈尊(しゃくそん)時代の迦葉阿難にもすぐれ、また像法時代における天台大師(てんだいだいし)、伝教大師(でんぎょうだいし)よりもはるかにこえているという。この折伏(しゃくぶく)の功徳(くどく)をいうわけですね。
 天台(てんだい)も伝教(でんぎょう)も折伏(しゃくぶく)は説きません。迦葉も阿難も折伏(しゃくぶく)はありません。ただ日蓮(にちれん)が弟子旦那(でしだんな)の信心(しんじん)が折伏(しゃくぶく)なんです。そこの折伏(しゃくぶく)の上に功徳(くどく)があるということをしみじみとひとつ深く感じて、ご精進を願いたいと思う。
 次に広布会の問題(もんだい)について一言ふれておきたいと思いますが、いわゆる去年、一昨年広布会を作りまして、ずっと樣子をみておりましたが、私もだまったほっておくわけにはいかなくなりました。実は議長として金子君にお願いしてありましたが、やはりどうにもこれから自分もひとつ皆さんといっしょに広布会をやっていかなきゃならない。
 それについて、ひとこと申しあげておきたいことは、広布会の世話人というものをもうけてまいりますが、その主席として、佐々木副講頭(ふくこうとう)にお願いしたいと思う。
 これは実をいうと、佐々木さんに歩いてくれというんじゃない。飛び歩いてくれというも、佐々木さんの信心(しんじん)の姿をみればもう最高(さいこう)ですね。もう凡夫の私がほめたからどってことございません。しかしながら皆さんがみてもですね、この佐々木副講頭(ふくこうとう)のあの信心(しんじん)の姿は立派(りっぱ)です。
 ここに私は、所謂(いわゆる)広布会の主席として、世話人としていわゆる佐々木副講頭(ふくこうとう)をお願いしたいと思う。
 議長は金子君そのままですが、あらたにまた世話人をもうけて、そして七月からいよいよ昭和六十五年をめがけて決戦態勢にはいってまいりたいと思います。
 いままで広布会というのは、自主折伏(しゃくぶく)でいわゆるおれも役やっているからみんなが出すから俺も出すという人がありましょう。結構(けっこう)です。何でもいいです。たとえ本気でなくともだしたひとはそれだけの功徳(くどく)を受けるでしょう。わたしはそれを信用します。そして必ず一人が一年に一所帯の折伏(しゃくぶく)をやっていただきたい。
 統監のの方にいって私の方ではこれの記録をきちっとしておりますけれども、要するにまだ広布会に入っていないひとは、いわゆる自主折伏(しゃくぶく)の誓願(せいがん)をするひとは、いつでもいいですから、いわゆる広布会に申し込んでもらいたい。
 わからなければ、受付の執事にても結構(けっこう)ですし、あるいは法華講(ほっけこう)の事務所でも結構(けっこう)ですし、要するに申し込みをする希望者(きぼうしゃ)は申し込んでいただきたい。
 これからのいわゆる精鋭部隊(せいえいぶたい)としての戦いは、所謂(いわゆる)明年からきびしい広布会の戦いに入ると思います。
 そして一万登山を完遂(かんすい)しなければならない。こう考えておりますので、この点もご披露しておきます。
 さて時間(じかん)の関係上(かんけいじょう)日応上人(にちおうしょうにん)の御報恩会で日応上人(にちおうしょうにん)についてお話をしていきますが、日応上人(にちおうしょうにん)は、五十六世の猊下(げいか)でございまして、五十七世が日応上人(にちおうしょうにん)のお弟子である阿部日正上人、日に正しいと書く。あも堀米日淳上人、細井日達上人のお師匠(ししょう)さんです。
 ですから、堀米上人、細井上人は日応上人(にちおうしょうにん)の孫弟子にあたるんですね。日正上人の弟子です。亡くなった常在寺の本種院、これも阿部日正上人の一番弟子ですね。五十六世が日応上人(にちおうしょうにん)、次の五十七世が弟子の日正上人、それから五十八世が日柱上人、日応上人(にちおうしょうにん)の弟弟子ですね。五十九世が堀日亨上人、大学者ですね。非常(ひじょう)な学者です。
 私も堀上人(ほりしょうにん)には随分無理(ずいぶんむり)をいってご指導(しどう)をわずらわせた。ご苦労をわずらわせました。あの終戦直後(しゅうせんちょくご)、昭和二十年、私教学部長になって、
 「ちょうどお前、法道院(ほうどういん)が焼けて暇だから本山へ来て働け」
と猊下(げいか)からいわれまして。
 本山へ入って、第一に手がけたことが教学の復興。まず堀上人(ほりしょうにん)にお願いして、それこそ九州から大阪からずっと教学の講習会を開いて歩いて、堀上人(ほりしょうにん)は、どうもおまえにいわれるとおれはことわれないんだよといっておれおれになった。
 しかもあのときは八十何歳、遺言状(ゆいごんじょう)を書いてお歩きになった。これは後で聞いて私は涙流しておわびしました。遺言状(ゆいごんじょう)を書いて、あの戦争中のですね、ひどい交通機関(こうつうきかん)のさなか、私ひとりお供して、そして遺言状(ゆいごんじょう)を書いておでかけになったと。ありがたいことです。
 この堀上人(ほりしょうにん)はです、わたしにしみじみ教えてくださったことがある。私も若かったですからね。正直なこといって。また堀上人(ほりしょうにん)、私のことよく知っているかたなんです、身の上も何も、これは。よく知っている。若いですからね。
 当時堀上人(ほりしょうにん)は御隠尊猊下(げいか)だとか、御前さんというと怒るんですね。何ともいいようがないですね。「何といえばいいんだ」
と聞いたら、
「老先生といえ」
と。
 老先生もしゃくにさわるし、しょうがないから、
「おじいさん、おじいさん」
といって、「うんうん」といってよろこんでくれてですね。
 それで私があるとき、堀上人(ほりしょうにん)におじいさん、貴方ほどの大学者、教学のすばらしいお方なんです。なぜこの荒廃した戦後の日本、敗戦の日本、そして日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)が非常(ひじょう)に大変なときにぶつかって、何故立ち上がって指揮をとらないんだと。こうまあ文句いったわけですね。
 ただ堀上人(ほりしょうにん)がおっしゃっておりました。いやお前違うんだよ。教学というものはそうゆうもんじゃないんだよ、違うんだ。私は百年の後に宗門の教学の資糧を集めて、後々のために残すのが私の使命(しめい)だと。そうゆう陣頭に立って戦う人は、これは違うんだと。学者とかそうゆうもんじゃないんだと。こうゆう事を教えられて本当に私は感激(かんげき)したことがありますね。
 それからですね、正直なこといって古い人はわかっているかもしれませんけれど、私は戦前の私というものは、いわゆる寛尊の法門(ほうもん)、そういった御法門(ごほうもん)いてんばりだったんですね、正直なところ。この堀上人(ほりしょうにん)の御指南(ごしなん)をうけてから、私はがらっと変わっちゃったんですね、話がかわっちゃいましたね。
 そしていわゆるこの組織の戦いをしなきゃダメだと気がついたんですね。非常(ひじょう)にこの堀上人(ほりしょうにん)のお言葉(ことば)はすばらしいお言葉(ことば)でした。
 それで、死んだ師匠が、法道院(ほうどういん)で昭和七年に常泉寺の前のいまの本行寺に、バラックの時分に亡くなりましてね、そして当時猊下(げいか)が日隆上人、これ堀上人(ほりしょうにん)の、いや、日応上人(にちおうしょうにん)のお弟子で、それから御隠尊が阿部日開上人、これいまの猊下(げいか)のお父さんであり、日応上人(にちおうしょうにん)のお弟子です。それから御隠尊が堀上人(ほりしょうにん)。こういらっして、みんな私をまもってくださったですね。若かっ
た、若くてそれこそどうしよもない、まあ例えていえば、師匠が死んで、昭和七年に死んで、昭和八年に総代二三人集まってもらって、吾妻橋へいわゆる法道院(ほうどういん)を建てたい。三年でやろう。
 もう、筆頭総代さんがまっこうから反対(はんたい)して、
 「あんた、冗談じゃない、あんたのお父さん程の力をもってして、五年間かかって、あの時土地が一万円ですかね、一万円のお金を集めるのに、足りなくって、二千円借金しているんですよ」
 貸してくれる人がいうんですから間違いない。私も師匠から聞いていました。それをあんた三年でですね、また一万円であの法道院(ほうどういん)を普請しようなんて、それは無謀なこと。私達は反対(はんたい)する。
 そこが私のバカというのかね、ずうずうしいというのかね、はんたいしたってなんたってかまわない。俺はやる。もう御本尊(ごほんぞん)の御座所だけ作って、あとおれは唐傘をさして暮らしていくといって、お前たちもそうしろと。
 便所も吾妻橋のそばに共同便所がある。あすこならすぐ二三分で行くんだからね、あれ使うから信者(しんじゃ)もそれ使ったらいいじゃないかと。それで始めたんです。
 ところが、奥村君とか、日応上人(にちおうしょうにん)子飼いの人達がですね、本当に立ち上がってくれたですね。今でも私は忘れません。袴田さんとか、あるいは田上君とか、いろんな人が、本当にたちあがってくれたですね。
 日応上人(にちおうしょうにん)恩顧の人達。そしてもう悠々として昭和八年、九年、十年、三年で当時法華講(ほっけこう)の積立金で御供養(ごくよう)もらったけれども、昭和八年、九年には力ができちゃったんですね。けれどもしかしここで褒めても毎月当時、普請をする御供養(ごくよう)を持ってくる御信者(ごしんじゃ)に対して申し訳ない。昭和十年まで落成式延ばしたんです。ちからは充分できちゃったんです。
 そしてお借りしたお金もきちっとまあ何というか、銀行にもきちっとしてですね、お礼をいってお返しもしたし、それから、稚児行列もまあ当時の人もまだ生きていますけれども、常泉寺から吾妻橋まで行った。それから大導師は日隆上人、脇導師が堀上人(ほりしょうにん)と日開上人、お三方、こんな法要珍しいです、正直なところ。ないですよ。法道院(ほうどういん)だから日応上人(にちおうしょうにん)が法道院(ほうどういん)だから出来たんです。
 猊下(げいか)のお出ましだけでも大変なんです。其の上両御隠尊が脇導師を勤めてですね、吾妻橋の法要へ。
 それでこの落成式を無事に勤めることが出来、しかもお世話になったお金も楽々とお返しして、あの当時のお金でとにかくあの吾妻橋が一万円で出来たんですからね。千何百円かのお金が残ったですね。
 これはもう本当に私としては何というか、堀上人(ほりしょうにん)もおっしゃっておりましたね。日応上人(にちおうしょうにん)のおかげじゃないかと。私もそう思います。自分の力でも何でもない。日応上人(にちおうしょうにん)の法道院(ほうどういん)。それが澎湃としてですね、もう宗門の猊下(げいか)初め老僧方はじめ御隠尊猊下(げいか)が力を尽くしてくださる。
 そして信者(しんじゃ)が実際にあれですね、立ち上がってくれる。内山、袴田 、青木さんいましたね。みんな立ち上がって、そしてそのあの吾妻橋が三年で出来てですね。
 こういう事がある。当時考えてみると日応上人(にちおうしょうにん)の力というものはこれは大きいですね。日応上人(にちおうしょうにん)の開基という寺は、三種類あるんです。
 自分で建てたお寺は法道院(ほうどういん)一件です。おなくなりになるときに、神奈川(かながわ)の高津たきさんという、これは法道院(ほうどういん)の鳥山さんが折伏(しゃくぶく)した人です。魚河岸にいる。いまあれですね、鳥山さんの子孫の法華講(ほっけこう)でがんばっていただいております。この間、ギンワさんという人が婚礼したんで、箱崎にてキンワさんじゃないかと聞いたら、そうですよといってびっくりしたんですがね。これがやはり鳥山さんの一族ですが。そのひとの折伏(しゃくぶく)、高津たきさん。
 それで魚河岸から、東神奈川(かながわ)へ行って、お弁当やさん、料理屋さん、旅館をやって、ちょうど東神奈川の駅弁なんかやっていましたね。それで高津たきさんが御供養(ごくよう)で、いっき建立(こんりゅう)で、あの神奈川(かながわ)の教会を建てたんですね。そして日応上人(にちおうしょうにん)が行かれて、そこへ行って、それで一年で亡くなっている。
 日応上人(にちおうしょうにん)自分で苦労をして建てたのは、この法道院(ほうどういん)なんですね。これひとつです。これもおもしろい。みんなそれぞれ外護(げご)があって、日応上人(にちおうしょうにん)を開基とあおいでおりますけれども、法道院(ほうどういん)はこれはちがうんですね。
 日応上人(にちおうしょうにん)が管長猊下(げいか)でいらっしゃる二十年の間の後の十年、本山から自分の材木を切り出して、深川へ運んで、そして青木守孝さんがあれを建てた。そりゃあ青木守孝さんて、立派(りっぱ)な御信者(ごしんじゃ)さんですよ。本因妙講のね。まあ本因妙講のすばらしい当時應尊門下の御信者(ごしんじゃ)がいましたね。まあ袴田さん大将にして、たくさんいたですよね。
 今の講中だってそうですよ、浄信講、清信講、正信講全部これは本因妙講の流れです。これはね。あの三味線屋の笠間さんところへいった小林か、この人の弟が昆布屋の橋本の処へ居候していて、それで折伏(しゃくぶく)はじめたのがいわゆるいま、橋本昇君が孫でやっていますがね。これが深川の開拓の第一歩になるんです。正信講、浄信講、為我井にしても、みんな正信講の人達にしても、全部その流れですね。
 そんなわけで、日応上人(にちおうしょうにん)の次は日正上人、日応上人(にちおうしょうにん)のお弟子。それからその次は日柱上人で弟弟子。その次は堀上人(ほりしょうにん)で弟弟子。六十代が御遠忌の時、日開上人で日応上人(にちおうしょうにん)の弟子。それから次が日隆上人、六十一世。六十二世日恭上人が弟弟子。次が日満上人で御弟子。あと次が六十四世水谷日昇上人で御弟子。次がいわゆる堀米日淳上人で、孫弟子ですね、さっきいった。次が日達上人は孫弟子。現猊下(げいか)もいわゆる日応上人(にちおうしょうにん)の御弟子のまた御弟子、孫弟子。
 こういうこの本山歴代の系譜を、系図をみると、何に日応上人(にちおうしょうにん)のお力が大きいかということですね。
 それからこんにち、この大きな宗門の土台を築いたのが日応上人(にちおうしょうにん)です。これはまあいちいち詳しく、これはまあ今の日顕猊下(げいか)がご存知ですからね。
 これは応顕寺のときに一言おっしゃっていますがね。こんにち創価学会がいわゆる大きな世界への広宣流布(こうせんるふ)の飛躍をしておると。国内においても千六百万からの信徒をつくっていると。しかし、そのもとは、誰かが折伏(しゃくぶく)したんだと。こういった意味(いみ)のお言葉(ことば)をこの応顕寺でおっしゃっている。
 今の池田総講頭のいわゆる折伏(しゃくぶく)は、戸田総講頭でしょう。戸田さんの折伏(しゃくぶく)はいわゆる牧口さん。目黒に住んでいましたがね。学校の校長さん。その人を折伏(しゃくぶく)した人があるはずだ。日応上人(にちおうしょうにん)までいっちゃうんですよこれは。それは応顕寺の時に日顕上人はおっしゃっていました。
 実は、この五十六世法道院(ほうどういん)開基日応上人(にちおうしょうにん)は、嘉永元年の生まれで、山梨の加納村というところ名取又兵衛という人の次男として生まれた。俗名は直二郎という。これはおもしろいんですよ。お母さんが沼津の出身なんですね。
 四つの時にお母さんにつれられて沼津へ行ったんですね。途中の宿屋で感種さんという人がいた、本山の下の町に感種さん、この人と出会って、この日応上人(にちおうしょうにん)のこの相をみて、何をやっていた人ですかね、感種さんて、なんかこうですね、相を見て、この子供(こども)はすばらしい子供(こども)だと。あんた、この子供(こども)をくれないかというんですね。お母さんがびっくりしちゃったんですね。
 くれないかと。くれないかといったって、私一存じゃいけないから、じゃあどうすりゃいいんだと。家へいって父さんに聞いてみなきゃいけないからといって、じゃあ俺も行くといって、日応上人(にちおうしょうにん)のお母さんについていってですね、日応上人(にちおうしょうにん)の手をとって、四っつの時ですね、この沼津から、沼津の在です、会ったのは、沼津から山梨の加納村まで行ったんですね。
 そうしてもう懇々と子供(こども)をくださいと頼む。おやじさんもちょっと困ったんでしょうがね、もう熱心なんで、じゃああげましょうということになったんです。
 この感種さんというひとが子供(こども)をもらって、そして本山へつれていっちゃったんですね。本山の地元の人ですからね。日霑上人のところへもっていっちゃうんですよ。日霑上人の弟子に。そして日霑上人に頼んで、十一歳の時に日霑上人の弟子になる。名を慈含と改めた。
 それから、文久三年から慶応二年まで五年間、あの上総の細草檀林で勉強するんです。慶応三年、二十歳の時に、三春の法華寺に住職になるんですね。これは有名(ゆうめい)な話なんですね。お寺へ着いて何にも用がないから、布団を敷いて寝ていた。
 総代さんが来て、あれあれ、ご住職さんどうしたんですかというと、用もなし、食うものも無し、しょうがないから寝ているんだと。これは寝て勉強しているんですね。用がないから、起きていれば腹がへっちゃうから寝てて勉強している。
 びっくりして、これはいまの吉田、妙蓮寺の管長をやって、私の弟子になっていますが、吉田がその話をしますが、やはり滑津にも行った。
 吉田の親父さんは滑津の総代さんでして、今度新しい僧侶が来たっていうんだけど、大抵総代回りをするんですがね、日応上人(にちおうしょうにん)はしないんです。来たというんだがどうしたんだろう。お寺へ行ってみたら、戸が閉まって寝てるという。まあ行ってどうしたんですかといったら、やはり返事は同じで、用はないし、食う者はないし、俺はねているんだ。びっくりして、その吉田のお父さん、おじいさんですね、ご飯を、お米を持っていって、運んでご奉公したと、有名(ゆうめい)な話しです。
 今でも吉田がいっています。
 それから新田の願成寺、それから仙台の佛眼寺へいって、そしてこの今の福島の廣布寺を開いたんです。
 明治十七年、三十六の時に、大石寺の**局長、今の総監ですね。了性坊に入って、寂日房に入る。それで明治十八年に小田原でキリスト教と法論をするんです。
 それから明治十八年十一月に本山の第三十六代の学頭となって、名を法道院(ほうどういん)というんです。能化になると院号を使うんですね。私なんかも姓は早瀬ですけれども、本山の公の場では観妙院(かんみょういん)というんですね。能化になるとそういうんです。
 そして明治十八年、学頭になると同時に、日布上人から跡の猊座を継いでもらいたいという。大石日応を後継者(こうけいしゃ)にしたいと。今私、手紙をもっております。日布上人のその手紙をもっていますがね。そうゆうお話があるんですが。日応上人(にちおうしょうにん)は、それをご辞退して、常泉寺へはいっちゃうんですね。それで三度日霑上人、お師匠さんの日霑上人が猊座を継ぐんです。
 常泉寺にいること三年、いわゆる明治二十二年五月二十一日、日応上四十二歳の時に、日布上人から再々のお言葉(ことば)で、日布上人は日応上人(にちおうしょうにん)と思ったけれども、日応上人(にちおうしょうにん)がご辞退しちゃった。常泉寺へはいっちゃったもんだから、三代、日霑上人という方は、猊下(げいか)を三遍つとめるんです。それは出来る方です。日応上人(にちおうしょうにん)の師匠。
 それで猊座を継いで、そして四十三年後、いわゆる明治二十二年五月の二十一日に、四十二歳の時、日布上人から血脈相承(けちみゃくそうじょう)されてですね、五十六世の法主になる。
 その時に名を、日雄「にちおう」「おう」というのは「ゆう」ですね、おすめすの「おす」。日雄から、いまのこの慶応大学の「応」にあらためているんです。
これは学頭になって法道院(ほうどういん)と称してなを「日雄」を「日応」と改めたという説がありますが、くわしく調べてみると、やはり明治二十二年、猊下(げいか)になって「雄」を「応」と改めている。日応上人(にちおうしょうにん)の伝記を訂正して出版したいと思っておりますがね。
 どうも生来面倒(めんどう)くさがり屋で、資料をあつめることが、まあ今も袴田さんから、昭和十年の「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)法道院(ほうどういん)再建落慶大法要係員住所録」これは私が作ったもんですね。これを持ってきていただいて、非常(ひじょう)な、貴重な資料だと本当に感謝(かんしゃ)するわけですね。
 これには、法道院(ほうどういん)再建落慶大法要係員顧問講頭鈴木けんゆう、庶務副講頭(ふくこうとう)奥村ちょうせい、山吹丁四十、電話番号を書いてある。いろいろこれはまあ袴田さん、よく記録(きろく)を持っていてくれたとおもうんですね。
 法道院(ほうどういん)は戦災で焼けちゃっていますからね。色々皆さんがもし資料があったらくれとはいわない。貸してください、コピーして残したいと思います。
 実をいうと、日応上人(にちおうしょうにん)の伝記も私もあるはずなんですがね、これは日応上人(にちおうしょうにん)伝というのを前に、昭和十年に私が吾妻橋の時に発行したんです。私これの原本がないんです。本山にこれ堀上人(ほりしょうにん)が使っている。昭和十年十月六日と、これ堀上人(ほりしょうにん)の字です。中を堀上人(ほりしょうにん)が訂正してですね、本山にある。それを私、いま私の弟子が本山の図書館の館長やってますからね。それで調べさせてコピーして、取り寄せたんですがね。
 これはまた堀上人(ほりしょうにん)が丁寧に筆を入れて直しているんですね。最初私は堀上人(ほりしょうにん)に、おじいさん、日応上人(にちおうしょうにん)の伝記書いてくれないですかといったら、忙しくてそれはなんて、あのひとは割合(わりあい)きらいなんですね。だから字を書いてくれというといやがるんですね。本当にこまった人でした。
 だからこの書き出しに、さすが堀上人(ほりしょうにん)は序分を書いてくれましたよ。
 「日応上人(にちおうしょうにん)の東京弘教(ぐきょう)は御一生(いっしょう)の念願であったように思う。ことに法道院(ほうどういん)の創建は、必死のご苦労がこもっておる。それは深川に蛸一匹」
これはあの有名(ゆうめい)な、
 「蛸一匹の浮き沈み」
という句があるんですね。食うや食わずですね。
 それでこの法道会は慈雄房に残したと。慈雄房の、上人における、まあ早瀬慈雄、私の師匠と、日応上人(にちおうしょうにん)とはどっからみても、子供(こども)と大人の差がある。堀上人(ほりしょうにん)も口が悪いね。親父は堀上人(ほりしょうにん)にはかなわないから、はいはいというんですが、まあ要領よくやったとおほめになっている。
 これは堀上人(ほりしょうにん)の序分、これは私が頼んでですね、それでその、またこのまず、
 「青年道應房の要請もあってあえて蕪辞(ぶじ)を加うと。***」
こんな文章僕らには書けない。仏さんの頭に糞を塗るような批評(ひひょう)は勘弁してくれと。おもしろいですね、堀上人(ほりしょうにん)のような学者は。
 それでこの堀上人(ほりしょうにん)の詳伝(しょうでん)、これは大村寿道さんが書いたんです。これはやはり間違い、間違いというかミスプリントがありますんでね。これを私が発行(はっこう)するにあたって、おじいさん、あんた日応上人(にちおうしょうにん)の伝記(でんき)書いてくんないから、せめて序分くらい書いてくれといったら、しょうがないなといってこれを書いてくれたんですがね。昭和十年十月六日発行(はっこう)。
 だからそういったことで、この日応上人(にちおうしょうにん)の伝記というものは非常(ひじょう)に大事(だいじ)だと思いますね。ともかく猊下(げいか)になって、そしてこのあれですね、大きな仕事(しごと)というと、大村さんはごりょうにんの払い下げと、御堂(みどう)の修復(しゅうふく)と、それから分離独立(ぶんりどくりつ)と三つあげているんですね。
 私は、また違うんです。私は分離独立(ぶんりどくりつ)が第一、これ五年かかるんです。それから『弁惑観心抄(べんなくかんじんしょう)』の出版、著作です。これは大変なもんです。
 『弁惑観心抄(べんなくかんじんしょう)』というのは、まあ皆さんに記念品(きねんひん)としてあげたことがあるんですが、分離独立(ぶんりどくりつ)というのは、当時官憲(かんけん)の政府(せいふ)の許可がなきゃ動きがつかないんです。歴代猊下(げいか)の希望なんです願望(がんぼう)なんです。それを日応上人(にちおうしょうにん)は、約五年かかるんです。
 当時の文部大臣(もんぶだいじん)が西郷じゅうどうです。やっと許可をとるんですね。というのは、日蓮宗(にちれんしゅう)とそれから興門派(こうもんは)、興門派(こうもんは)というのは日興上人(にっこうしょうにん)の流れのいわゆる大石寺、それから妙蓮寺(みょうれんじ)、北山本門寺、西山本門寺、それから小泉久遠寺、保田妙本寺、それから伊豆(いず)の実成寺、京都の要法寺、八ヶ本山、日興上人(にっこうしょうにん)のみんな弟子です。
 日興上人(にっこうしょうにん)の興をとって、興門派(こうもんは)と、これ一派なんです。それをいわゆる日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は抜けたいんですが、彼等謗法(ほうぼう)ですからね。要法寺だって、だめだし、もう全部ダメですから。どこをどうしても、みんながおさえてだめなんです。それをこの日応上人(にちおうしょうにん)がついにです、この独立したんですね。いわゆるその当時日蓮宗(にちれんしゅう)富士派と独立したんです興門派(こうもんは)をぬけて。
 あと、大正元年に御弟子の日正上人が日蓮宗(にちれんしゅう)興門派(こうもんは)を日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)と改宗した。これわけないんです。内輪でやることですからね。法道会といおうと、法道院(ほうどういん)といおうと、どうでもなるそれは。ただその本山からぬけてですね、離脱(りだつ)して、離脱(りだつ)しなきゃ、彼等を謗法(ほうぼう)とたたけばいいんです。謗法(ほうぼう)ですからね。
 今の北山の本門寺なんかもそうですよ。もう身延からいわゆる貫首(かんず)を迎えて、そのおかげで食っている。ひどいもんですよ、それは。
 それでまあ、いわゆる讃岐(さぬき)の本門寺とか、それから保田とか妙蓮寺は大石寺へ帰属しましたがね。帰属(きぞく)しましたが、そんな具合で非常(ひじょう)に苦労なんです。これはもう本当になんといっていいんですかね、明治(めいじ)三十三年九月十八日、いわゆる富士派(ふじは)となったんです。その初代管長となったのが日応上人(にちおうしょうにん)ですね。明治三十三年、四十二年にいったんですよ。
 それで今度は、四十五年、大正元年に御弟子の日正上人が富士派を日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)になおしたんです。内々でやることですから。これで富士派になった。
 それからもうひとつ大事(だいじ)なことは、いわゆる『弁惑観心抄(べんなくかんじんしょう)』を書いたということです。現在(げんざい)歴代猊下(げいか)は我々住職を集めて講義をするときに、その教本、教科書(きょうかしょ)として『弁惑観心抄(べんなくかんじんしょう)』をつかっていらっしゃる。今の猊下(げいか)もそう、日達上人もそう。堀米上人もそう。『弁惑観心抄(べんなくかんじんしょう)』を教科書(きょうかしょ)としてつかっていらっしゃる。
 これはどうしても大事(だいじ)な本なんですね。まあ教学を勉強するならば、『弁惑観心抄(べんなくかんじんしょう)』をづたづたになるまで読めと私はよくいうんです。ただ私はいろんなことから、まあ教学(きょうがく)をあまり尊ばないように思っていらっしゃるが全然(ぜんぜん)違うんです。
 堀上人(ほりしょうにん)のおっしゃった教学だけが広宣流布(こうせんるふ)じゃないんだと。そうすると日応上人(にちおうしょうにん)はなぜこのような法道会をお建てになったかという主旨は、いわゆる広宣流布(こうせんるふ)のために、二十年間猊下(げいか)にいらっしゃる後の十年間を法道院(ほうどういん)で暮らして布教をせられた。これですね。
 そこに私がいわゆる古来の寛尊の法門(ほうもん)いろんな難しい法門(ほうもん)をやめて、平たい話しにしている。ともかく、法道院(ほうどういん)は折伏(しゃくぶく)の集団だと。日応上人(にちおうしょうにん)のご心中はそこにあるんだと。折伏(しゃくぶく)がないひとはどうぞゆっくり御信心(ごしんじん)をしてくださいといったいみをですね、ここにあらわしているのはそういった意味(いみ)ですね。
 ですからやはり教学は大事(だいじ)ですが、現在(げんざい)私は火曜講(かようこう)にでておりますが、あれは日訓のなかで、御書(ごしょ)で講義(こうぎ)しているんですがね。まあしばらくそれで続けますが、やはり基本的になんか教科書(きょうかしょ)を撰んでですね、私はこれまあ、自分の命のあるうちに講義(こうぎ)をしなきゃならないとこう思っていますがね。
 ですから日応上人(にちおうしょうにん)のお残しになった事業としては、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の基礎、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は興門八ヶ本山から分離独立(ぶんりどくりつ)して、そしてあの八ヶ本山を謗法(ほうぼう)ということが出来る。いっしょにいたんじゃあ謗法(ほうぼう)といえないですね。やっつけることはやっつけるんですこれは。謗法(ほうぼう)といえない。
 この点、私は法道院(ほうどういん)として日応上人(にちおうしょうにん)の大きなご功績(こうせき)であると思うし、『弁惑観心抄(べんなくかんじんしょう)』をお書きになったということは、これも日応上人(にちおうしょうにん)一世のご事業であるとこう拝するわけですね。
 法道院(ほうどういん)は明治三十一年、五十一歳のときに、これは猊下(げいか)になって十年目ですね。四十二で猊下(げいか)になって、五十一歳、。六十二で日正上人に法を譲るんですが、だからその時にいわゆる法道会を西方に建てるんですが、わかんないです場所は。
 それからあれですね、小島町、竹町、これは手紙があります。竹町十二番地というお手紙がある。それから、日応上人(にちおうしょうにん)が阿部日正上人に御相承なすったのは、その時にお使いになった筆に日応上人(にちおうしょうにん)が書いてある。これは土浦(つちうら)の永井藤蔵さんから私もらってね、持っている。正確(せいかく)な日がわかっております。
 御相承というのはこれは、こういう話をしていいかどうかわかんないですが、猊下(げいか)と猊下(げいか)だけです。大体(だいたい)の塔中を集めてですね、大抵客殿でやりますからね。回りを外護(げご)させる。塔中の御僧侶(ごそうりょ)は。外側を警備(けいび)させるだけですね。あと、もう人は入れない。客殿の隅に鈴を置いて、鈴監、総監が座るんです。それで猊下(げいか)と猊下(げいか)の御相承(ごそうじょう)がおわると、咳払いか何かなさるんです。そうすると鈴(りん)を打ってはじめてみんなが堂に入ることができる。だれも入れない、これは。
 私の詳しいのは実は、いわゆる日開上人の御相承、それから歴代の猊下(げいか)の御相承(ごそうじょう)にはですね、どうした因縁(いんねん)か、全部お役をいいつかっているんですね。本当にお役をいいつかっているんですね。開師、隆師、それから恭師、満師、満師の御相承(ごそうじょう)の時なんか金屏風をまわしてお経机を置いて、お二方がお座りになる、硯箱、用意したんです。そこまで私は日隆上人(にちりゅうしょうにん)を背中におぶって、蓮葉庵から歩いて、真夜中(まよなか)に。
 まあ一言もいいませんけれども、道応さん、こういうもんだと。それでこの座席へ隆師(りゅうし)は足が悪いですから、お座り願って、それで満師(まんし)がお入りになって、私が外へ出ちゃう。
 誰も、一人も、これこんなこと、坊さんじゃなきゃ必要ないんですがね。塔中も入れる必要ないんです。もう猊下(げいか)と猊下(げいか)だけです。御相承(ごそうじょう)とはそうゆうもんですね。
 いまなんだあのくだらない「正信会」なんていうものは、相承があったとかなかったとかいう。あったかなかったかなんにもない。猊下(げいか)と猊下(げいか)だけですからね、これは。これはもう私、実にこの開師、隆師、恭師、満師、昇師、それから淳師、淳師のときもそうですね。それから日達上人。ずっとこの猊下(げいか)八代の猊下(げいか)、全部関係(かんけい)しているんですね。
 ですからまあまあつまんない話は、つまんないというとおかしいですけれども、御信者(ごしんじゃ)に必要のない話はする必要はないですが、御相承というものはそういうもんですよ。何にもないですよ。証拠(しょうこ)もなきゃ何にもないですよ。それが御相承(ごそうじょう)ですよ。たまたま日応上人(にちおうしょうにん)が筆、お使いになった筆に何年何月何日相承と書いて、メモがあって筆に、貼ってある紙に脇に書いてある。それがあったくらいですね。そうゆうわけですね。
 そしてこの大正十年にいわゆる鳥山さんの折伏(しゃくぶく)した高津たきさん、これが神奈川教会(かながわきょうかい)を一期建立(こんりゅう)し、それで蓮葉庵(れにょうあん)から東神奈川へ移る。麻布の我膳坊(がぜんぼう)にもいましたがね。そして大正十二年のこれが三月、大正十二年の六月に神奈川(かながわ)で御遷化(ごせんげ)、御歳七十五歳、法臘(ほうるい)六十四年、坊さんの生活六十四年ですね。
 折伏(しゃくぶく)というのはね、わかんないもんですよ。時間(じかん)がきたからもう雑談的な、懇談的(こんだんてき)なことはやめますがね。

 実はあの、緑が丘に妙真寺というお寺があってね、これは本因妙講の人は知っているでしょう。今の千早町(ちはやちょう)にあった長崎(ながさき)の妙国寺、それが平山という人が建てた。それが後に妙真寺(みょうしんじ)を緑が丘に建てた。
 この人が法道院(ほうどういん)の御信者(ごしんじゃ)の折伏(しゃくぶく)ですね。それで坊さんになっているんですよ。阿部けいさんというね、今、根津権現(ねづごんげん)の隣に住んでいた。これは中山の行者(ぎょうじゃ)です。分かるんですね人が歩いているのが、行者というのは。
 これが御信心(ごしんじん)にはいって日応上人(にちおうしょうにん)にさとされて、
 「お前はそんな魔の所業(しょぎょう)をしてちゃあダメだと。そんな通力(つうりき)がなくなんなきゃ本当の信心(しんじん)じゃない」とさとされて、行者(ぎょうじゃ)をやめて、大聖人(だいしょうにん)、
 「通力(つうりき)ある者を信ずるならば、***信ずべきか」
とおっしゃっている。
 そんな通力(つうりき)はダメだと。正しい信心(しんじん)は正しい信心(しんじん)折伏(しゃくぶく)に功徳(くどく)があるんであって、通力があったってそんなのは利益(りやく)にはならない。功徳(くどく)にならない。
 よくしかられて、それで根津権現(ねづごんげん)のわきにいわゆる阿部コトさんというのが中山の行者(ぎょうじゃ)がいたんですね。その人の娘分です。娘。それが栃木にいましてね、それで平山君が、謗法(ほうぼう)しているのをつかまえて、折伏(しゃくぶく)して、そして関東大震災(かんとうだいしんさい)の時ですよ、最初に。
 それであの人が発心して御僧侶(ごそうりょ)になったんですね。それで今の妙真寺来て、それで阿部コトさんという、その阿部さんのですね、内に永代経(えいたいきょう)で平山君から願っておりますが、その人の墓が本山にある。平山はいまあの倅が、立派(りっぱ)なお寺を建てたですね。山上に立派(りっぱ)なお寺を建てたですね。その子供(こども)たちに、
 「この阿部さんの墓を粗末(そまつ)にすれば平山家は滅びるぞ」
と、こう遺言(ゆいごん)しているんです。平山家(ひらやまけ)は滅びる。
 自分も此の御本尊(ごほんぞん)につけてくれた人だと。ありがたい人だと。みんなだって折伏(しゃくぶく)をしてくれた人の恩をそんなに強く感じる人はあったら立派(りっぱ)ですね。さすが平山君です。
 このひとのためにですね、いわゆる自分はこの御信心(ごしんじん)に、御僧侶になることができたんだと。本山にある。だれが面倒(めんどう)を見るもんがあるか。僕がみればみると。平山がみている。平山に聞いたら、いやもう私はこの人のおかげでこの日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の信心(しんじん)にはいれた。
 だから私はこの墓を末代まで守る。子供(こども)らにいっていました。師匠、親父がそういっていた。この墓を守らなければ平山の家は断絶(だんぜつ)すると、そういわれておりますからまもっておりますと。
 だからその人の法事の時には向こうの住職でいるんですけれどね、法道院(ほうどういん)へ来て法道院(ほうどういん)の信者(しんじゃ)ですから、法道院(ほうどういん)で供養(くよう)をしているんです。永代供養(くよう)もまあ法道院(ほうどういん)で願っている。
 折伏(しゃくぶく)というのはそういう大きな功徳(くどく)があるんですね。また折伏(しゃくぶく)されたそれだけの感激(かんげき)をですね心に染みて行く人は立派(りっぱ)なもんだと思うんですね。
 どうかひとつ、法道院(ほうどういん)は普通(ふつう)のお寺じゃないんです。折伏(しゃくぶく)の集団なんです。折伏(しゃくぶく)の、日応上人(にちおうしょうにん)の法道院(ほうどういん)なんです。このことをひとつ心において、是非私は今後まあ、今年末、明年から広布会(こうふかい)と共に戦っていきたいと考えておりますので、よろしくお願いしたいと思います。
 雑談になったけれども、こんな話しすることないですよね。年に一回ぐらいしか。たまにはいいですよ。どうかひとつ今申しあげたように、折伏(しゃくぶく)する功徳(くどく)、そして今の平山さんじゃないけれども、折伏(しゃくぶく)していただいたその功徳(くどく)を一生(いっしょう)忘れない、それこそ孫末代、そのお墓を守るというこの信心(しんじん)は立派(りっぱ)だと思う。
 折伏(しゃくぶく)の功徳(くどく)はそこにある。このことを申しあげて、きょうの日応上人(にちおうしょうにん)の御報恩に供えたいと思います。