疫病流行について ~新型コロナウイルス感染拡大に対して~ ③

御 書 の 明 鏡
                             日柱謹記

 今や世界大戦乱の惨禍は、漸く終(しゆう)熄(そく)を告げたけれども、所謂世界感(かん)冒(ぼう)は、一旦稍(や)や弛(ち)緩(かん)と見へしに、再び猛烈の勢を倍(ばい)して、捲(けん)土(ど)重(じゆう)来(らい)し、国境もなく、疫(えき)風(ふう)吹き捲(まく)りて、人命を奪ひ去るは、これ由々しき現象にあらずや。蓋し人身は、殆んど四百四病の容器なれば、衛生上予防不行き届きにより、疫風に冒されたりとて、当然と云はば云へ、斯くの如く悪疫の流行するは、唯だ尋常一様の事と、冷視し難かるべし。
 『神国王御書』に、「一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず心をもうかべ給へり。心を浮かぶるのみならず先業をも未来をも鑑み給ふ事くもりなし」(新編1302)と宣(のたま)へり。
 予は今ま此の聖言の如く、大聖人の御書も亦た然りと申すものなり。乃ち当世の現象を、此の明鏡に照らし視るに、『日女品々供養御書』に、「去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼(ほ)ゆる犬は腸(はらわた)切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分が二はやみぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はやまざれども心はやみぬ。又頭も顕(けん)にも冥(みよう)にも破ぬらん。罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり(『日女御前御返事』新編1232)。(尚ほ『聖人御難事』(新編1397)をも参照すべき事)
 此の御書、今の世の有様を浮べ給へるのみならず、人の心をも浮べ給ひて明かなるにあらずや。
 現今医薬及び衛生法等、其の進(しん)歩(ぷ)並びに其の行き届ける点は、鎌倉幕府当時の如き、とても此れに比すべくもあらざるべし。然るに悪疫流行に至ては、敢て彼れに遜色あらざるは、果してこれ何のゆへぞ。単にこれを衛生上のみより観察して可なるか。抑も亦た精神上欠陥より由来するにあらざるなきかに、想到せざるも不可なきか。
 且つそれ右の御書に、「今一分は身はやまざれども心はやみぬ」(同新編1232)と。今ま此の明(めい)鏡(きよう)に照らして、心に疚(やま)しからざる人、果たして幾許かある。心の病者とは、予が嘗(かつ)て云へる、成金中毒症、徳義衰亡症、報恩亡失病、偏見民本病等にして、殊に甚だしきものは、大謗法病なり。人心の病は、終に国家衰亡の病たるなり。此等の病疫が人心に胚胎せりと思ふうちに、早や既に国家の膏(こう)毫(ごう)に侵入せるに心付かざる事あり。唯だ皮相の見のみを以て油断すべきにあらず。而かも亦た其病勢の漸(ぜん)進(しん)に乗じて、悪鬼悪魔の其の便りを得、一層害毒を猛烈ならしむる事あり。恰も火勢に風(ふう)威(い)の加はるが如し。故に国病の防止、退治こそ最も急務なれ。曾て大聖人が不自惜身命に、諫暁に、強(ごう)折(しやく)に、極力病源の対治に努め給ひしは、実に事の急なるに依るゆへなり。今亦たこれに例して知るべきなり。
 尚ほ念言す、国土は兎角に災難の絶へぬもので、少しも安心は出来ざる事なり。そは則ち天変地妖の如き、此等は唯だ科学的にのみに視て、警誡するに足らずとなすべきか。若しくは所謂四(し)罰(ばつ)の孰(いず)れにか相当するにあらざるなきかを、常に猛省するは、肝要事なるにあらざるか。
 予は、今は多くを言はず、正さに御書の明鏡をかかげて以て、世人の其の心を照らし視んことを、希望するものなり。(完)

白蓮華 第14巻第3号(大正8年3月7日発行)

[本文]
「今や世界大戦乱の惨禍は、漸く終熄を告げたけれども、所謂世界感冒は、一旦稍や弛緩と見へしに、再び猛烈の勢を倍して、捲土重来し、国境もなく、疫風吹き捲りて、人命を奪ひ去るは、これ由々しき現象にあらずや。」
[通解]
「今(大正8年[1919])は、第一次世界大戦の惨禍(惨状・災禍)は、(大正7年11月12日に終戦し、大正18年1月のパリ講和会議で)漸く終熄(終息・終戦)を告げましたが、所謂、(第一次大戦の終わり頃から流行り始めた)世界感冒(スペイン風邪)は、一旦(今はやや感染拡大も終息したように見えましたが、(今年の春に入って)再び猛烈な勢いを倍増し、捲土重来(=「けんどちょうらい」再び勢いを盛り返して巻き返)して、国境もなく(全世界)に疫(病)の風が吹き捲(まく)るような事態になり(多くの)人命を奪い去っていることは、これは由々しき現象(安閑としてはいられない事態)です。」

[本文]
「蓋し人身は、殆ど四百四病の容器なれば、衛生上予防不行き届きにより、疫風に冒されたりとて、当然と云はば云へ、斯くの如く悪疫の流行するは、唯だ尋常一様の事と、冷視し難かるべし。」
[通解]
「確かに人間の身体は、ほとんど四百四病の(仏法で説く人間の疾患する一切の病気。 人体は地・水・火・風の四大の調和が破れると各々百一の病気を生ずるために四百四病)の(ありとあらゆる病気を盛った)容器のようなものでありますから、衛生上での予防が不行き届きになれば、疫(病の)風に冒されたりすることは当然のことと言えます。しかし今回のような(スペイン風邪の如き)悪い疫(病)の流行することは、唯(単なる)尋常一様の事(普段の病気流行)等と(簡単に)冷(淡)視してしまうような状況ではありません。」

[本文]
「『神国王御書』に「一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず心をもうかべ給へり。心を浮かぶるのみならず先業をも未来をも鑑み給ふ事くもりなし。」(縮冊遺文1302)と宣へり。」
[通解]
「『神国王御書』に「釈尊の一代諸経の中で『法華経』は明鏡であり、その中でも神の鏡というべき御経です。爾前諸経は銅の鏡のように、人間の身体(形)だけは映写(浮かべ)ることはできても、心の中までは映せません。『法華経』は人間の身体(形)だけで無く、その人の心の中まで映します。さらに心だけではなく過去世の宿業も、未来世までも映す、曇りの無い明鏡です。」(御書1296)と御教示されています。」
※ 「四百四病」=『治病大小権実違目』(弘安元年6月26日・御書1235参照)
※『法華経』=三大秘法の大御本尊と拝すべきです。したがって御本尊様に唱題するならば現在の自分を見つめられるだけではなく過去世の業や未来の自分をも浮かべるのです。[本文]
「予は今ま此の聖言の如く、大聖人の御書も亦た然りと申すものなり。乃ち当世の現象を、此の明鏡に照らし視るに、」
[通解]
「私(日柱上人)は、今この『法華経』を明鏡であると御教示された御文と同じく大聖人様の御書もまた明鏡であると申し上げたいのです。すなわち現在の(スペイン風邪の世界的流行という)現象をまのあたりにして、この御書の明鏡に照らして視(拝察す)るならば、」

[本文]
「『日女品々供養御書(日女御前御返事)』去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼ゆる犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分が二はやみぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はやまざれども心はやみぬ。又頭も顕にも冥にも破ぬらん。罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり。(1232~3)(尚ほ『聖人御難事御書』1397をも参照すべき事)」
[通解]
「『日女御前御返事』に、「去年から今年にかけての疫病と、去る正嘉年中の疫病は、神武天皇以来九十余代の御代には無かった比類なき疫病である。それは聖人が国にいるのを人々があだむ故であろう。師子に向かって吼える犬は腸(はらわた)がちぎれ、日月を呑む修羅は頭がわれるというのはこれである。日本国の一切衆生のうち、すでに三分の二が疫病にかかり、そのうち半分は亡くなってしまった。また残りの三分の一の人々も、体こそ病んでいないが心は病んでいる。また頭は顕れてもあらわれなくても頭破差七分であろう。そもそも罰には四つあり、総罰、別罰、冥罰、顕罰である」と御教示されている。(御書1232)(なお『聖人御難事』[御書1397]も参照すべき事)」
※日柱上人の省略された箇所に「聖人をあだめば総罰一国にわたる。又四天下、又六欲・四禅にわたる。賢人をあだめば但敵人等なり。今日本国の疫病は総罰なり。」とあります。
(通解)「聖人をあだめば総罰は一国にわたり、更に四天下、六欲天、四禅天にまで及ぶ。賢人をあだめば別罰で敵対した人のみに限られる。今日本国の疫病は総罰で聖人が国にいるのを迫害したためである。」

[本文]
「此の御書、今の世の有様を浮べ給へるのみならず、人の心をも浮べ給ひて明かなるにあらずや。現今医薬及び衛生法等、其の進歩並びに其の行き届ける点は、鎌倉幕府当時の如き、とても此れに比すべくもあらざるべし。」
[通解]
「この御書(の御教示)は、今(大正8年3月)の世の中の状況を(鏡のように)映されているだけにとどまらず、(一切衆生)の人の心(の中をも)明らかに映されている。現今の医薬および衛生法など、その(医学的な著しい)進歩や(全国民に)それらの(医薬品や衛生方法などが周知徹底して)行き届いている点は(日蓮大聖人御聖誕700年)鎌倉時代の当時(の医療衛生の状況とは)、とても比較できないほど(進歩している)のである。」

[本文]
「然るに悪疫流行に至ては、敢て彼れに遜色あらざるは、果してこれ何のゆへぞ。単にこれを衛生上のみより観察して可なるか。抑も亦た精神上欠陥より由来するにあらざるなきかに、想到せざるも不可なきか。且つそれ右の御書に「今一分は身はやまざれども心はやみぬ」と。」
[通解]
「かくして今回のスペイン風邪という悪い疫病の流行していることは、あえて彼(医療や衛生面)に遜色無い(近代日本の社会は充分行き届いている)のにも関わらず、果して、これは何なる理由であろうか。単にこれを衛生面だけから観察していいものであろうか?そもそもまた精神衛生上の欠陥より(スペイン風邪流行の原因が)由来することではないかと想像するに至ることも可能であろうか。同じく先に引用しました『日女御前御返事』に「今、一分は身(身体)は病んでいなくても、心(精神)は病んでしまっている」と。」

[本文]
「今ま此の明鏡に照らして、心に疚〈やま〉しからざる人、果たして幾許かある。心の病者とは、予が嘗て云へる、成金中毒症、徳義衰亡症、報恩亡失病、偏見民本病等にして、殊に甚だしきものは、大謗法病なり。人心の病は、終に国家衰亡の病たるなり。此等の病疫が人心に胚胎せりと思ふうちに、早や既に国家の膏毫に侵入せるに心付かざる事あり。」
[通解]
「今この(御書)の明鏡に照らして、心に疚しいこと(良心がとがめる、うしろめたい)の無い人は果たして幾許(幾人)いるでしょうか。心を病んだ者は、私(日柱上人)がかつて「時事を鑑みて」(大正7年10月7日『白蓮華』第13巻第10號)で申し上げましたように、成金中毒症・徳義衰亡症・報恩亡失病・偏見民本病などでしょう。とりわけ甚だしい病は大謗法の病であります。人心の病は、最終的に国家を衰亡する病であります。これらの病疫(疫病)が人の心に胚胎していることに気付く前(思ふうち)に、早ければ既に、国家中枢の膏(心臓の下部)毫(わずか)に侵入していることすら心(気)付かないこととなります」

[本文]
「唯だ皮相の見のみを以て油断すべきにあらず、而かも亦た其病勢の漸進に乗じて、悪鬼悪魔の其の便りを得、一層害毒を猛烈ならしむる事あり。恰も火勢に風威の加はるが如し。故に国病の防止、退治こそ最も急務なれ。曾て大聖人が不自惜身命に、諫暁に、強折に、極力病源の対治に努め給ひしは、実に事の急なるに依るゆへなり。今亦たこれに例して知るべきなり。」
[通解]
「単なる皮相的な見方だけで油断すべきではありません。さらにまたその病の勢が漸(時)進(捗)することに乗じて、悪鬼や悪魔がその便りを得て、一層、害毒を猛烈にしていきます。しかも(それは)あたかも火の勢いに風の威力が加わり燃え盛るようなものです。故に国の病むことを防止し、退治するこそが最も急務です。かつて大聖人様が不自惜身命され、国家(諫暁)され、強(盛に)折(伏)され、極力、病の源を対治するに努められたことは実に(当時の一大)事の急(務)であった為です。今日もまたこの御振舞を前例と知るべきです。」

[本文]
「尚ほ念言す、国土は兎角に災難の絶へぬもので、少しも安心は出来ざる事なり。そは則ち天変地妖の如き、此等は唯だ科学的にのみに就て、警誡するに足らずとなすべきか、若しくは所謂四罸の孰れにか相当するにあらざるなきかを、常に猛省するは、肝要事なるにあらざるか。予は、今は多くを言はず、正さに御書の明鏡をかかげて以て、世人の其の心を照らし視んことを、希望するものなり。(完)」
[通解]
「なお念じて言えば、国土は兎角、災難(災害)の絶へないことは当然ですから、少しも、安心することは出来ません。それは、すなわち天変地妖(飢饉疫厲)のようなものですから、こられはただ科学的(の視点から)のみで(全く)警誡には足らないと判断するべきなのか。もしくは所謂、四罸(総罰・別罰・冥罰・顕罰)のいずれに相当するのか否かを常に猛省していくことが(最も)肝要な事なのではないでしょうか。私(日柱上人)は、今は多くの(言葉)を述べませんが、まさしく御書の明鏡をかかげて、それをもって世の中の人々が自分の心を(日蓮大聖人様の御書に)照らして視るべきであることを希望するものであります。(完)」