悪口を言ってはいけない理由

 悪口つまり愚癡や他人の批判を言い続けたらどうなるかという事を、科学的根拠をもって説明されている。

・悪口は脳内伝達物質による緊急体制を誘発するため、脳を攻撃し、それが続くと巨大なストレスとなり脳の機能自体を衰えさせ、低下させ、脳を鈍らせてしまう。
・人の悪口を言うと、脳が自分自身に悪口を言っていると判断し、自分も傷つき気分が悪くなる。人をけなしてばかりいる人は、なぜか自己嫌悪に陥っていくのはそのためで、より人に対して攻撃的になる。
・社会行動学的に見ても、悪口は伝染するものなので、自分自身の悪口(悪評)も広く伝染してしまい、やがて人間関係で悩むことになってしまい、自分の居場所を失ってしまう。
・悪口は、言えば言うほど自分に心を開いてくれる人が減っていく。また、愚痴を言うと聞いてくれた相手にも、同じ脳科学的影響が生じ、嫌な気持ちとストレス、よくない心因反応を与えているので、大切な友人などに愚痴ることは、その人を傷つけている事になる。
・子供や家族の前での喧嘩、悪口は精神的虐待になり、将来の子供の成長に大きく影響を及ぼす。母親(父親)が父親(母親)の悪口(愚痴)を言うのは、子供の逃げ場を奪うことになる。母親が子供に対して父親の悪口ばかりを言っていると、子供は、父親のことが嫌いになる。また、家で会社や上司の悪口や愚痴をいうのも、子どもの社会に対する価値の歪みにつながり、社会に出た時に、苦労させることになる。
・最後に、特に意地悪・愚痴・悪口・他人の批判をする人の顔ほど、老化が進むといわれていて、これは自律神経の影響で、副交感神経の乱調によるものと推測される。悪口や批判を言う人は、老けやすい。悪口を言っている人の顔は、口元はゆがみ、下がり、目つきは悪くなり、縦にシワが寄る。頻繁に悪口を言っているとその時の顔が通常化してしまう。

 以上が悪口の弊害です。

・反対に、相手を褒めれば、自分が褒められたのと同じ状態に。反対に相手を褒めてあげると、自分が褒められたと思い、気分が良くなり自尊意識が高まります。この脳の特性を理解し、良い言葉を日常的に使うようにしましょう。相手にかける言葉を大切にすることが、結果的には自分自身も大切にしていることにつながります。

 まさに身口意三業における善因善果・悪因悪果の現証であり、十如是の相と性と体、力作因縁果報が一体となった実相である。

 さて、邪義邪宗を破折することは、その人を救う為の真実の慈悲であり、決して悪口ではありませんが、妙法の同志に対して、つい出てしまう愚痴や悪口は、大聖人様が『松野殿御返事』に、「忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」(新編1047)と、法華経を受持する者は仏となるから、その仏を謗りては罪を得ると戒めておられますように、悪果を招く罪障を作ることになるので、講員同志で言い争ったり決して十四誹謗を犯してはならないのです。
さらにまた不軽菩薩が但行礼拝したごとく、一切の衆生には仏性があるわけでございますから、六道輪廻に立脚する愚痴や悪口は、結果、自身を六道輪廻に堕とすごとき悪因となるのです。故に、いずれにしても、愚痴や悪口は、身を滅ぼす悪因となりますから、厳に慎まなければならないことであり、逆に人様を褒めることは大変良いことであり、人から褒められる善因を作ることにもなるので、まことに結構なことですね。なお、愚痴や悪口を口に出してしまうことは、心性に悪意を抱くからですが、そもそも悪意を抱くのは、自らの因と他の縁の因縁によるものであり、その根源は我執、つまり自我に対する執着、自分可愛さに起因しておりますから、そこを見つめなければならないと存じます。

 よく他から不利益を被ると、自分を虐めた他に責任を求めがちですが、実は自分の因果による果報であるということ。つまり、自分に不幸の原因があることを置き去りにして、単にあの人が悪いなどと他に責任を求めることが多いかと思いますが、仏教の因果の教えの上からは、実は、そうではありません。善も悪もそのすべてが、自分の因果、因縁によるものである、ということ。それを正しく捉えることが出来ると、他から幾ら虐められても、それを責任転嫁することなく、全ては自己の問題と反省して、自己の如何なる言動によるやの原因を究明し、改善していきますから、結果、自分が変わるのです。そこでさらに、しっかりとお題目を唱えて境界を高めたら、その高い境界の人達が周りに出来て、そのワールドを自らが築くこととなり、結果、虐められなくなり、むしろ、虐めていた人が逆に守ってくれる諸天善神の用きとなるのです。