慳貪(けんどん)の報い(平成26年9月)

むかし、近江(おうみ・現在の滋賀県)の国に、まずしい夫婦が住んでいました。

ふたりには、5才になる男の子がいましたが、妻は夫にいつも不満をもっていました。ですから、何回も子供をつれて家出しましたが、そのたびに夫にみつかり、つれもどされました。

 

ある日のこと、やっとのことで、夫がでかけているのを見はからって、役人のお屋敷にかけこむことができました。

「お願いです。夫と別れることをお許し下さい。このままだと、私も子供も飢え死にしてしまいます」

すると役人は「いったいどうしたというのだ?夫が妻を離縁することはあっても、妻から夫と離縁したいとは、どういうことかね?」と言いました。

妻は「私の夫はけちん坊で冷たい人です。3日前にも、こんなことがありました。夫が川で鮎を20匹釣ってきました。

私と子供は、久しぶりにおいしい魚が食べられると楽しみにしていました。
しかし、1人で焼いて食べるだけで、泣いて欲しがる子供に1匹も分けてくれませんでした。

あまった鮎はお寿司にしましたが、やはり1匹も分け与えてくれませんでした。

私たちはいつもおなかをすかせていますが、夫だけおなかいっぱい食べるだけで、私たちはもう夫についていけません」と答えました。

 

「自分がおなかをすかせても、妻や子供には不自由はさせない」と普段から考えていたお役人は、この話はあまりにもひどいと思いました。

役人はさっそく、その夫を役所に呼びつけ妻や子供に対する話をすると、夫は「はい、手前どもはまずしいものですから、まず自分が元気で働かなければと思って、自分への施しを第一と考えています」と答えました。

これを聞いた役人はあきれかえってしまい、「普通、親たるものは子供のためには、おなかをすかせてもどんな苦労もいとわないのに、お前は夫としても父親としても失格者だな」と言いました。

しかし、夫は「自分は正しい」と思っていますから、失格者と言われても、きょとんとしています。

すると役人は夫をさとすように言いました。
「自分に施すことは、施しとは言わないのだ。自分だけのことを考えるのは欲心であり、むさぼりなのだ。

物を惜しむことを「慳(けん)」といい、むさぼることを「貪(とん)」というが、お前のような者を「慳貪(けんどん)の者」というのだ。

けちん坊で冷血人間のお前は、今世でも未来世でも、かならず慳貪の罪で、地獄の苦しみを味わうであろう。

お前は、自分の妻や子供はおろか、仏法僧の三宝様(さんぽうさま)へも、主人や師匠、両親らにも施すことを一切していないが、いったい何のための人生なのか、よく考えなさい」と言いました。

そして、「お前は先日亡くなった庄屋の子供たちよりもひどい男だ」と言いました。

 

枯れ木

 

夫は先日亡くなった庄屋のことは知っていて、
「たくさんの財産を残して亡くなったにもかかわらず、お取りつぶしになってしまった」ということでした。

でも、詳しい事情は知りませんでした。

「いったい、どのような事情でお取りつぶしになったのでしょうか?」と役人にたずねると、

「それは、3人の子供たちが、たくさんの財産をめぐって、少しでも自分が多く取りたいと争ってばかりで、亡くなった父親のお葬式のだんどりもしなかったので、見かねた親せきの者が葬儀を行ったのだ。

そんな親不孝の者どもに庄屋のあとを継がせるわけにはいかないから、取りつぶしにしたのだ」と答えました。

そして役人は夫を見て、
「妻や子供に、そこまでひもじい思いをさせて、なおかつ反省していないお前をこの国から追放にする。どこなりと出て行くがよい。餓鬼界の苦しみを味わうがよい」と言いました。

 

「餓鬼界は、仏教で説かれる十の世界の1つで、1番下の地獄界の次に続く苦しみの世界です。

財産をむさぼり、人の食べ物飲み物を盗んだり、自分のことしか考えていないと、死んだ後、餓鬼界の世界に堕ちる」とされています。

その世界に堕ちると、すがたはやせこけ、のどは針のように細く、しかも食べようとする食べ物が炎に変わるため、飲むことも食べることもできず、その苦しみはのどが火で焼かれるような苦しみです。

 

皆さんは、ふだんから決して自分勝手な行動や、自分が良ければいいや、という考えをもたないように気をつけましょう。

そうしないと、餓鬼界の苦しみの世界が、口を開けて待っています。

そうした世界に堕ちることがないように、人を思いやる気持ちをしっかりもって、立派な大人になれるように、勤行・唱題、勉強をしっかりがんばりましょう。