出家した乞食たち (令和元年5月)

むかし、コーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)でお釈迦さまがお説法をしていた時のことです。

その国には五百人の貧しい人たちがおり、その人たちは修行僧がお釈迦さまの御信徒から供養して頂いた食べ物を、さらに僧侶から分けてもらって生活していました。

その人たちは、貧しくて乞食をしていましたが、心までは貧しくなく、いつかは出家して僧侶になりたいと願っていました。

ある日のこと、その五百人の人たちはお釈迦さまに会い、
「私たちは生まれながら身分の低い、いやしい身分の者です。今日まで修行僧の恵みによって生活をして来ましたが、私たちはいつも、いつしか出家して僧侶となり仏道修行し、悟りを開きたいと願っておりました。どうか出家することをお許しいただけないでしょうか?」と尋ねました。

するとお釈迦さまは、慈悲深いまなざしで、

「一同の者よ、仏さまの教えはすべて平等で、差別はありません。たとえば清浄な水は、泥でも、粘土でも、砂でも、全て差別なく、等しくきれいに洗い流します。それと同じように、仏さまの教えは、貴いとか、いやしいとか、美しいとか、みにくいとか、金持ちとか、貧乏とかの差別はありません。信心の誠の志があれば、あなたたちも出家して仏道修行することができますよ」と答えられました。

 

このように出家を許された五百人の乞食だった人たちは、修行僧となり一生懸命修行に励み、五百人が全員、阿羅漢(あらかん)という悟りの境界を開くことができました。

しかし、多くの信徒たちは、

「あの僧侶たちは、もともと乞食だった。あんないやしい者たちを、自分は尊敬する気もちにはなれないね」と不満を言っていました。

ある日のこと、波斯匿王(はしのくおう)の王子である祗陀太子(ぎだたいし)が食事会を開き、お釈迦さまご一行を供養することになりました。

でも太子は、
「あの五百人の僧侶たちは招待するつもりはありません」と言ってきました。

お釈迦さまはだまって聞き入れ、五百人の僧侶たちに、
「明日、私たちは食事の供養に招待されましたが、お前たちは招待されていません。そこでお前たちは、須弥山(しゅみせん)の北方にある鬱多羅越(うつたらえつ)という国へ行って、米を刈り取って太子の屋敷に来なさい。そして、お前たちはその米を私たちと一緒に食べなさい」と言いました。

 

五百人の僧侶たちは、阿羅漢の悟りを得て持った神通力(じうつうりき)を使って、鬱多羅越の国へ行き、米で満たされた器をもって祇陀太子の屋敷に行き、お釈迦さまと共に食事をしました。

太子は礼儀正しい立派な僧侶たちを見て、
「あの威厳ある立派なご僧侶方は、どこからこられたのですか」とお釈迦さまに尋ねました。

お釈迦さまは、「あの者たちはあなたが招待しなかった、五百人の者たちです」と答えました。

太子は、もともとこじきだった僧侶たちは、どうせ行いもいやしいことだろう、と思っていた自分の思い込みを大いに恥じました。

「お釈迦さま、私はこんなに輝かしい御僧侶を見たことがありません。今、私は自分のしたことを反省しています。それにしても、この国で1番いやしい者だった人たちが、どうしてこのように輝いているのか。また、その人たちがどうしてこじきをしていたのか、どうかぜひお聞かせ下さい」とお願いしました。

そこで、お釈迦さまは五百人の過去についての物語を次のように語り始めました。

「遠いむかし、波羅奈国(はらなこく)でのことです。ある山中で大勢の修行僧が修行に励んでいました。その国には1人の信心篤い長者がおりました。

その人は、いつも修行僧を大事にして、食べ物の供養を惜しむことがありませんでした。

ある年、干ばつが続き穀物が少しも取れませんでした。
その時、長者の家には千人の修行僧の食べ物を供養することができるかを聞きに、使いがやってきました。

長者は使用人に、倉の中を調べて充分な食料があることを確認させ、千人の僧侶は五百人の使用人によって満足な食事の供養を受けました。

しばらくして、別の僧侶が供養を求めて来ました。
次の日、その次の日も千人の僧侶が来ました。

やがて食事の材料が残り少なくなり、五百人の使用人たちは、だんだん僧侶たちを嫌うようになりました。

『姿は立派でも、供養を受けて食事をしていることは、まるでこじきと同じではないか」と感じるようになりました。

そんなある日、1人の僧侶が長者に、これから梅雨の時期に入るからこの種を植えるようにと、数袋の種を渡しました。

やがてその種から、うりのような実がなり、不思議にもその実には米や麦などの穀物がぎっしり詰まっていました。

その不思議な実によって、干ばつで飢えに苦しんでいた多くの人びとが、全て救われたのでした。

それを見た五百人の使用人たちは、僧侶の食事の世話をしていたことを感謝ではなく、やっかいに思ってしまったことを心から反省し、僧侶たちにお詫びし、未来世もまた御僧侶たちのもとで仕えたい、修行させて頂きたいとお願いしました」。

 

お釈迦さまは、以上の話をして、
「過去の五百人の使用人たちは、現在のあの五百人の僧侶たちですよ。修行僧のことを嫌い、こじきなどと思ったために、長い間こじきの生活をするはめになりました。しかし、自分たちの過ちを反省し、仏道修行の誓いをしたことによって、あのように出家して僧侶となったのです」と、太子をはじめ、その場にいた多くの人びとに言い聞かせ、身分や身なりで人を判断する心を改め、仏道修行に励みなさいと言われました。

 

日蓮大聖人さまは、
「いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給ふべからず」と、身分はたとえ貧しく、こじきのようになっても、御本尊さまを信じぬき、信心をやめてはいけませんよと仰せです。

また、総本山第26世日寛上人(にちかんしょうにん)さまも、
「かならず身のまづしきをなげくべからず。唯(ただ)信心のまづしき事をなげくべけれ」と、身分やお金の豊かさよりも、信心の貧しさに気を付け、心の豊かさを大切にして信心して行きなさいと仰せです。

皆さんも、これからの生活、どのようになるかはわかりません。

しかし、たとえ大変でも忙しくても、何不自由なく豊かな生活であっても、信心を忘れることなく御本尊さまを信じ、お題目を唱えて続けていけば、必ず御本尊さまが不思議な素晴らしい結果をもたらして頂けることを忘れず、毎日の生活を送って下さい。

そして、御本尊さまに感謝することを忘れないようにして下さい。